2008年12月27日土曜日

個展:瀬畑亮セロテープアート展

芸術家という生き物は奇妙な生き物です。練馬区美術館で開催されていた「石田徹也展」と一緒に開催されていたのが、セロテープアートの第一人者、瀬畑亮の個展。(公式HP

日経新聞か何かで紹介されていて名前を知りました。彼女は市販のセロハンテープを巻上げて造形を造ります。幼少の頃からセロテープに異常な興味を抱いていた彼女は、与えると使い切るまでセロテープをいじくりまわしていたそうです。母親が、これだけ与えれば諦めるだろう、飽きるだろうと、袋一杯のセロテープを与えたら、彼女は水を得た魚とばかりに、袋一杯のセロテープを使いきった・・・。

正直、彼女が造形をどうして「セロテープ」で造らなくてはならないのか、理解できません。蜜蝋のような独特の色。仔細に表面を見ると、セロテープが気の遠くなるほど巻かれているらしい痕跡。かつては「芯」を用いて造っていた時期もあったのだとか。しかしある人から、その「虚」を指摘されてからは、手が腱鞘炎になるのも厭わず、芯を用いないところから造形を造るようにしたそうです。

塊の全てが薄いセロテープの積層体であると思ったときの、そこに込められた時間と想いに、少しばかりクラクラします。

彼女の造るオブジェは他の素材、例えばFRPとかガラスとか鋳物などでも可能です。しかし彼女はセロテープ以外の素材では表現できず、得られた作品の質感、重さ、密度感も、セロテープ以外では、おそらくありえないのでしょう。

2008年12月26日金曜日

個展:石田徹也展~僕たちの自画像~


練馬区美術館で開催されている「石田徹也展」に行ってきました。行かずにはいられないと思って西武池袋線の中村橋まで足を運びましたが、これは正解。というか、衝撃の世界が練馬の小美術館で展開されています。必見です(→石田徹也公式HP http://www.tetsuyaishida.jp/)。

「NHK美術迷宮館」で、かの「飛べなくなった人」が紹介され、気にはなっていたのです。しかし、彼のこれらの作品をどう評価するか。深刻なメッセージと取るか、あるいは日常の違った面からの断章と取るか。石田氏自身は「ユーモア」という言葉を用いて自分の作品を説明したりもします。そう、それほど「深刻」になる必要はないのか、と思ったのが、比較的受容も解釈もできる第一展示室の作品群。

しかし、第二展示室は生と死と虚無と希望が横溢した、凄まじい世界が静かに展開されていました。驚きの作家の内実。31歳、町田付近で踏切事故で若い命を落としました。彼の作品を見ると、この先彼は生き続けることができたのか、こんなにナイーブな精神が、現代で通用しただろうかと思ってしまいます。

柔らかく、壊れやすく、あたたかく、湿っていて、決して人前には出せないので隠し持っているような何か。まるで子宮願望のような回帰性。現実に「嫌だ嫌だ」を内心では繰り返しながらも、表では能面のような風を装い、そして何かが毀れていく。石田氏の作品が内包する世界は、現実世界そのものや自分のありように対する苛立ちと反逆となって奔流します。そういう自分を「ユーモア」で笑い飛ばしながらも、目だけは笑っていない。

一貫して描かれた虚ろな目をした青年が、画布の向こうから見据える我々は、いまどんな風に見えているのでしょうか。

彼の作品は、先に紹介した公式HPでも閲覧できます。しかし、画集や画像からは分かりにくいディテールの凄まじさは、実物に接しなくては得られません。その大きさと細やかさと執拗さ。画家の精神に圧倒されます。

詳細なレポートは弐代目・青い日記帳(→http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1567)をご覧下さい。東京では28日(日)まで開催されています。




2008年12月23日火曜日

映画:地球が静止する日


キアヌ・リーブスが出演している「地球が静止する日」を観てきました。結論から申上げますと、とてもではありませんが正視するに耐えない映画でした。莫大な予算と時間と労力をかけて、これほどに壮大かつ無意味・無感動な映像を造り上げる馬鹿さ加減に呆れ果てます。まったく、ハリウッドってやつはです。



51年のロバート・ワイズ監督による同名映画のリメイクですが、最新のSFX技術を駆使して巨大ロボットゴートや地球が破壊される様を描きたいという欲求で造られたといったところでしょうか。女性科学者演ずるジェニファー・コネリーのみが唯一の見所。それにしても浅い、中途半端!突っ込みどころ満載。中盤からラストにかけては呆然、これでオワリ!?


人類の叡智をもってしても到底抗うことのできない、圧倒的な差のある敵からの攻撃や蹂躙とか侮蔑。主人公が、わずかなチャンスを生かして戦うというのは、古今東西、永遠に尽きることのないテーマ。それをどう料理するかが腕の見せ所だと思うのです。特殊撮影技術が主ではありません。


人類が消えれば地球は助かるという発想は、以前に読んだアラン・ワイズマン著のベストセラー『人類が消えた日(The World Without Us』を思い出しました。こちらは渾身のノンフィクションでした。

2008年12月21日日曜日

柴田哲孝:TENGU




帯にあるように「第9回 大藪晴彦賞受賞作」とのこと。この本が大藪晴彦の名に値するかは議論が分かれましょう。今年話題のミステリーでもと思って書店の平積みを手に取ったものですから、この作家を読むのは初めて。果たして読んでみますと、確かに筆力はあるし、面白い。一気読みです。

しかし、着想の奇想天外さと結末に向けての造りこみに納得ができるか。ベトナム戦争、911テロ、国家レベルの隠蔽交錯など、広げた風呂敷は大きいものの、結末は"これかよ"みたいな大きな肩透かし。種も仕掛けも裏もないんですよ。ですから壮大なミステリーを期待する向きには、失望と甘さを禁じえないでしょう。そういう意味では「剛球」勝負の作家といった印象。

本書を大藪賞たらしめる理由があるとすれば、それはアウトロー的男のロマンを土台とした作風にあるのでしょうか。作者自身が、海外の秘境に釣行するアウトドア派で、パリ~ダカール・ラリーにも参戦などのプロフィールを読むと、疼きを覚える人も多いはず。作中人物に作者の姿がかなり投影されているらしい。


そういう輩の思い描く「男のロマン」とは、しかし客観的に見ると、これほどまでに子供臭く身勝手なものなのかと呆れてしまうほど。主人公や周辺の男達の人物像に感情移入できるか否かが本書の評価の分かれ目になるでしょう。


さらに酷い(と言い切ってしまいますけど)のは女性像。男の理想系でしか描かれず、一時代前の小説を読むかのようです。彼女達を「やさしい女」「理想の女」「天使」と見るか否か。バカバカしくて、ちょっと笑ってしまいます。因習の村の扱いも作者の女性像をフレーミングするためのプロットでしかなく、深みに欠けます。


まあ、そういう批判はイロイロありましょうが、です。男というのはかくもバカな生き物だと「やさしい女」たちに赦してもらいたいということなんでしょうかね。


それであっても、彼のデビュー作となった「下山事件 最後の証言」を、彼の筆致で読んでみたいという気にはなりました。私はバーボン派でありませんから、上質のシングモルトでも用意して。そう、バカな男にはスピリッツがどうしても必要なんです。






2008年12月18日木曜日

映画:レッド・クリフ Part 1


ジョン・ウー監督の「レッド・クリフ Part1」を観てきました。



イロイロと多忙な師走にあって、このような完璧なエンターテイメントは、ひとときのカタルシスを与えてくれます。圧倒的な戦闘シーンは、今ままで観たこともないほどの迫力と残酷さ、そして壮大さがあります。


ジョン・ウーの暴力シーンは賛否両論があります。ここに「男の美学」を感じるか否かが、彼の作品を好きになるか嫌悪するかの重要な境目となりましょうか。(私は、彼の表現はちょっと「やりすぎ」と感じる程の穏健派ではあります)


ジョン・ウーの描く「美学」は派手かつ官能的と言えるほどの戦闘シーンだけにあるわけではなく、その戦闘を行うに至る原因や必然性にこそ「男」が痺れる要素があるように思うので、単純化された図式は彼の持ち味を少しばかり損なっているかもしれません。


本編は「三国志」の中で有名な「赤壁の戦い」を扱っています。善悪を分かりやすくするために、曹操を悪玉に、諸葛孔明を有する劉備軍と周瑜を有する孫権軍の同盟軍を善玉としています。これが物語を平明なものにしています。


「三国志」といえばゲームになるほど人口に膾炙していますから、語り始めるとキリのない人も多いでしょう。私は久しぶりに吉川英治の「三国志」を取り出して、「赤壁の巻」をつらつら暇に任せて読んだりしています。

2008年12月15日月曜日

誉田哲也:ストロベリーナイト



こういうサスペンス小説が最近は受けるのでしょうか?

男性社会でぶれることのない立ち位置を占める存在感ある女性が主人公であること、官僚組織の典型である警察を舞台としていること、そして猟奇的殺人事件と意外なる結末。「売れる」要素は兼ね備えています。

しかし、私にはどうにも、こうにも。サスペンスはこのごろほとんど読みませんけど、もっとマシな小説もありましょうに。大阪日帰り出張の往復の新幹線の中でヒマつぶしにでもと思った本で、多くを期待して読んだわけでもありませんから、いいんですけどね。

何よりも受け付けないのは、猟奇的にしてグロな描写。最近の読者は、このくらいに刺激的でなくてはモノ足りませんか。読者がバカにされているような不快な気分です。刺激的であればよいというものではない。

残虐さと相反するかのような、下手なユーモア、コテコテの人間関係は下手な漫才を見ているよう。主人公の過去には、主人公の成長物語として読むこともできますけど、重いテーマが刺身のツマみたい。

そして警察の嫌というほどのセクショナリズム。組織のしがらみとか、出世とかキャリアとか=3私のような中間管理職のサラリーマンは、身につまされたり、共感するところもありましょう。でも、それが逆に確信犯的に感じられ、これまた作者にコケにされているように感じる。

解説者が「キャラが立っている」と書いたところで、クセがある人物というだけでそれ以上ではない。

犯罪者心理や動機や背景にも共感を全く覚えません。社会の暗部をえぐってもいません。

所詮エンタメ小説、読んだらすぐさまBOOK OFFという運命であることに変わりはなく。怖いものみたさを満たす小心でスケベな感情と、自己憐憫と自己弁護のためのガス抜きと言ってしまえば、きつ過ぎますか。

ファースト・インプレッションにしては批判的すぎるとは思います。同じ作者を続いて読む気には、今のところなりません。また新幹線にでも乗るというのなら別でしょうけど。

2008年11月16日日曜日

竹内一正:スティーブ・ジョブス 神の交渉力



iCON/スティーブ・ジョブス 偶像復活」を以前読んでいますから、本書から目新しい情報は得られません。ジョブスについて知っている人に本書は二番煎じの、初めて読む人には短い時間でのガイダンスなりえましょう。


既に充分に紹介されているジョブスのビジネスにおける「手口」とか「やり方」を紹介し、テーマごとに「貴方にもできそうなこと」を自己啓発所風にまとめているところが本書の特徴。ソニーの井深大や松下の松下幸之助などを、刺身のツマのように引き合いを出していますが、中途半端で雑な印象を受けます。



誰もがジョブスに敬意を示し、ジョブスに憧れたとしてもジョブスには到底なれない。ジョブスの前にジョブスなく、ジョブスの後にもジョブスなしです。


彼の性格を端的に表現する表現。


腕に覚えのないサラリーマンでは、ジョブスと働くのはムリだ。たちまち切って捨てられるだろう。ジョブスは、鋭利な刃物のような切れ味の人間だから、敵をなぎ倒し、問題を解決する過程で、まわりの人間まで切り刻むことがしばしばである。よくも悪くも、これがジョブス流だ。(P.70)


あるいは、


能力や野心が大きければ大きいほど、人はジョブスに惹きつけられる。そしてドアの内側に入れば、「ジョブス以外の人の下では働きたくない」と言い切る。一方で、ドアの外側に追い出されたら、「二度と絶対ジョブスとは働きたくない」と断言する。(P.91)


なぜ、人はジョブスに惹かれ、ジョブスから離れるのか。なぜビジネスの場で、ジョブスは相手を圧倒的に魅了してしまうのか。それはジョブスが、我々がかつて見たこともないようなモノを見せてくれることと、何かとてつもなくワクワクさせてくれるものを絶対に実現させるのだという強烈な意志があること。


ジョブスを「嫌い」「嫌な奴」と評する人は多いと思います。「野心」もなく凡百の才能しかない者が、いったいジョブスから何を学べるというのでしょう。絶対に実現させたいモノあるいはコトがあるのか。彼を知ることは、働くことの源泉に対する問いかけで、小手先の技術を幾ら並べたり、彼のやり口の好悪を評しても詮無いことではないかと。



本書はジョブスの有名な2005年スタンフォード大学での基調講演(→
Text of Steve Jobs' Commencement address(2005)~STNFORD NEWS SERVICE)
の言葉で締めくくっています。この演説は非常に感動的で、本書を読むよりも余程価値があります。

有名な「今日が人生最後の日であったら」の部分。


for the past 33 years, I have looked in the mirror every morning and asked myself: "If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?" And whenever the answer has been "No" for too many days in a row, I know I need to change something.

スタンフォードの学生に贈るメッセージ。


Your time is limited, so don't waste it living someone else's life. Don't be trapped by dogma ? which is living with the results of other people's thinking. Don't let the noise of others' opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.

最後は下記の決意表明で結ばれます。


Stay Hungry. Stay Foolish. And I have always wished that for myself.

日本語訳もネットを探すとイロイロあります。Googleでトップに出るのはここ。You Tubeの動画は下記。




2008年11月4日火曜日

三浦篤:まなざしのレッスン〈1〉西洋伝統絵画


今年春に大学生になった息子に、美術論の教科書として使っているけど面白いよと言われ読んでみたもの。確かにこれは良書です。(→Amazon


本書はいわゆる西洋絵画概論ではありません。西洋絵画を観る面白さを理解するために、最低限必要な知識や、その後の「学び方」を概説するもの。本書のスタンスと簡単なガイダンスの後は、「神話画」「宗教画」「寓意画」「肖像画」「風景画」「風俗画」「静物画」という具合に章立てされています。西洋絵画と神話、宗教は切り離すことができず、肖像、風景、静物画は全てそれらの派生として生まれてきたことも説明されます。




絵画は自らの「主観」や「感性」こそ重要にすべきだという意見もありましょう。しかし筆者は(既に無意識のうちに雑多な知識や先入観が本人にあるため)、もはや「視線」は本来決して「無垢ではない」という前提に立ち、

「感性」も学ばれる余地のあること。
他者の模倣から出発しない「独創的個性」は存在しない


と主張します。図版が白黒で少ない(講義ではスライドを映写しているそうですから)ことが少々残念ですが、語り口は平易で非常に読みやすくできています。明日にでも美術館に脚を運びたい衝動に駆られます。少しでも美術について勉強したことのある人にとっては、常識的なことしか書かれていないのでしょうけど。


こうして通読しますと、いかに私(たち)が美術的教養に対して無知であり、美術界が紹介する口当たりの良いジャンルのみをいたずらに受容してきたのみではないかと反省してしまいます。こんなにも面白い教育(教養)が最高学府に至るまで、公的教育機関においてなされていないこと。西洋のみならず自国についても歴史、美術、音楽、芸能などを相互的かつ複合的に扱う教科が存在しないことは、とても残念なことだと思います。公教育に頼らず興味あれば自分で勉強しろということなのでしょうけどね :-p。

図解!あなたもいままでの10倍速く本が読める


世に速読関連の本はあふれています。それほどに現代人は処理する情報量が多いということの裏返しなのでしょう。ですから、繰り返し出ては消えていくこの手の本も、売れ行きが減退することはありません。(→Amazon


本書の目新しいところは「フォト・リーディング」という手法。1ページ1秒くらいでページを脳に焼き付けるのですとか。




フォト・リーディングを効果的に行うためには、「プレ・リーディング」(プレビュー:読書の方針決定)、「ポスト・リーディング」(ポストビュー:反省と深化)も欠かせない、何度も本文に接することによって、本書の理解も深まるのですとか。


斜め読みだろうが何だろうが、同じ本を三度も読めば、そりゃあ理解は深まります。肝心の「フォト・リーディング」となると、私には万人向けとは感じられませんでした。本書を元に何度か試してみましたが、こんなトレーニングを、とてもではありませんが続ける気になりません。この本だけで「フォト・リーディング」ができるようになる人も居ると思えない。そのうえ、「フォト・リーディング」以外は比較的まともなことしか書いていない、世の速読本とあまり変わりはないといった印象。


安易なビジネス本とか、ハウツー本などには、このような速読法は効果的でしょう。私も立ち読みのときは新書や単行本は1冊30分程度です、それ以上は疲れてしまいますし。しかし、じっくり読み込みたい本や、難しい本は速読はしません、というか速読に適さない、速読できない。


結局のところ読書法というのは、今までに蓄積された読書量と読書の質がベースとなって、それぞれが独自に編み出すものなのだと思います。私のように大した読書経験もない者には「速読可能なレベルの本」の数など、たかが知れているといったところ。あるいは、「速読可能なレベルの本」をいくら大量に読んだところで、得られる糧も知れているというと、書きすぎでしょうか。

2008年9月1日月曜日

[立ち読み]「残業ゼロ」の仕事力、人生力


新聞広告などで大きく宣伝されていましたので、ざっと二冊を読んでみました。もっとも、立ち読み、それも2冊合わせて30分程度です、はずしていたらごめんなさい。


『仕事力』の方はタイトルの通り残業することがいかにムダであるのかを、諸外国のデータや著者の経験に基づいて力説しています。『人生力』は、前著の蒸し返しの部分が多いので、読むなら『人生力』だけでも良いかもしれません。


本書は、残業を続けることが仕事後の人生(著者はそれを「本生」と称しています)をスポイルすることになるという、著者の最も基本的な人生に関するスタンスを強調しています。


著者の「所詮仕事はゲーム、人生に必要なお金をかせぐためのもの」「楽しみは仕事がおわってから」というスタンスに違和感を覚える読者も多いようです。しかし、本質はそこになないと思います。著者だって仕事を人生の一部と考えて「楽しんで」いることは十分に伝わりますから。


私の場合、一番印象的だったのは、以下の式です。


��4時間-(睡眠時間)=(仕事の時間)


仕事の時間には通勤時間も含まれます。これでは自分の時間が残らないのだと。著者は最低でも3時間は毎日自分の時間をつくれ、家族と会話しろと説きます。まず自分に投資しろということです。すなわち、


��4時間-(自分への投資時間)-(睡眠時間)=(仕事の時間)


ということです。「自分への投資」には自己啓発もありましょうし、家族との時間も含まれます。著者は仕事関係のパーティーなどには出席しても、「どんなに親しい人とも二次会は行かない」と書いています。「睡眠時間」も確保すべきリソースなわけです。


自分のリソースさえ計画配分できない輩が、企業利益を叩き出せるわけなどないのかもしれません。残業ゼロの発想とは、人生の生産性を上げ、よりよく生きていく上での不可欠なものと痛感する次第です。


その他、著者の個々の「アイデア」については、実践していることも多く、それほど感銘は受けません。そんなの当たり前だよなといったところ。


いずれにしても定年前後に配偶者から別居願い、離婚届けなど突きつけられないようにすることは、「24時間仕事人間」にとっては痛切な問題でしょう(><)。

2008年8月30日土曜日

展覧会:コロー展~光と追憶の変奏曲


国立西洋美術館で開催されている「コロー展」を観てきました。コローは美術部であった高校時代に好きであった画家の一人。その頃は、独特の水辺の風景画に惹かれていました。今回の展覧会は、コローとしては大規模のもので、しかも彼が優れた人物画家であったことも示す企画になっています。




パンフや半券になっている絵は「コローのモナリザ」と称されている作品。これと「青い服の婦人」が今回の展覧会の目玉になっています。扱いとしては、こちらの方がコローとして有名な「モルトフォンテーヌの想い出」などよりも重い扱いです。


コローの作品の魅力は、静謐さ、建築や人物造形上の揺るぎのない構築力、それと相反するかのような樹木の表現の叙情性にあります。展覧会の副題が「光と追憶の変奏曲」とあるように、コローの絵には彼にしか表現できない詩情が漂っています。


印象派のような軽さや鮮やかさは認められないものの、コローが印象派に先駆けた「眼の作家」であったことは否定できません。彼の作品からは、ひたすらに風景や人物がもつ外的美しさと憧憬と愛情が感じられます。


批判的に観ればば、人物表現については内面性までを感じさせるものではありません。風景表現においても大規模な神話的絵画においてはイメージと技術の硬直を感じます。展覧会という場で多くのコロー作品に多く接した場合、多少の退屈を感じることも否定できません。


それであっても、私にとって、コローはかけがえのない作家の一人であることに変わりはなく、この企画に接することが出来た僥倖を素直に喜びたいと思います。


2008年8月18日月曜日

特別展「対決-巨匠たちの日本美術」


東京国立博物館で開催されている、「対決巨匠展」を観て来ました。人気です。朝9時半会場ですが、既に大人数が並んでいます。確かに見ごたえがあります。「対決」というキャッチと企画は成功しているようです。






美術作品を選ぶのも並べるのも企画(演出)が勝負なのでしょうか、今まで見慣れた作品でも、対比、流れの中で観ると、全然違った背景が見えてくる場合があります。そこに企画(演出)者の意図の押し付けのようなものを感じることしても、我々とてイノセントな眼は持っていないのですから、企画を楽しむのが正解なのだと思います。対決に対する批判をも含めて。


展示作品は膨大で、そのひとつひとつを述べることはできません。詳細はいつものことながら、弐代目・青い日記帳のエントリに譲りましょう。


印象的であったのは、それでも、か、やはり、というのか、展示作品冒頭の運慶と快慶の仏像と伊藤若冲の鶏画は圧巻でしたね。仏像の存在する空間さえ支配するごとき静謐さ、若冲は画面の痛みもなくその鮮やかさときたら驚くほかありません。


こうして日本画を観ていますと、どの時代の作品においても日本画というのは、技術的には大胆さと繊細さが、空間的には対象と間の絶妙のバランスで成立しているようです。若冲の作品にも背景としての場あるいは間というものが存在しています。その意味から蕭白の作品は、異常なまでのエネルギー、執着を感じる異様な作品として感じました。あのエネルギーを受け止めるパワーは私にはありません。

2008年7月8日火曜日

野田歌舞伎


朝日新聞か何かに、8月歌舞伎座で公演予定の「野田版 愛陀姫(あいだひめ)」のことが紹介されていました。その中で野田秀樹の言葉として「伝統は大切にするが、伝統によりかかった誤解は踏みにじる」みたいなことが、「芝居は楽しませるためのもの」。


分らなくもありません。それでも、どうしても承服しがたい部分もある。中村勘三郎の芸、天才的なところは認めるものの、時代に対する迎合と「軽さ」が好きになれません。「それ」を歌舞伎でやる必要はないのではないかという疑問。


見てもいないのに批判しても*1)仕方ありません。人気の「愛陀姫」に空席など全くありませんから、久しぶりに暑いさなか幕見に並ぶことになるのでしょうか・・・*2)



  1. 「観てもいないのに批判」は、それ自体意味がありません。私の単なる覚書きとして記録しています。
  2. ・・・結局観られませんでした・・・とほほ。



2008年7月6日日曜日

バウハウス・デッサウ展


上野の東京藝術大学美術館で開催されている「バウハウス・デッサウ展」に行ってきました。大学時代に建築を学び、懐かしさもあってのことだったのですが、結果としては、今の自分の好みとは全く相通ずるところのない感性に「あてられて」いささか気分を悪くさえしてしまいました。







バウハウスという運動は、ひとつの時代の帰結としては避けて通れないものであったのだろうとは思いますが、ある時代の「実験的芸術」は今を生きる時代にあっては学究的価値はあっても一般的な鑑賞には耐えられない、貧相なものは貧相、神経を逆撫でされてしまいました。


バウハウスの授業での実習作品なども展示されており、デザインを勉強する若い人たちには興味深く写るのでしょう、しきりにメモを走らせている美学生が目に付きます。しかし私には、学生時代の経験とオーバーラップし、息苦しさと不器用さ以上ものを感じることができません。ましてバウハウス校舎などは「監獄」にしか見えません。グロピウスが設計した「デッサウ校舎の校長室」も、機能主義のシンプルさと表現はできますが、ちょっと好みではない。


とまあ、珍しく否定的です。しかし、美術館を後にして思ったのですが、私の感じた息苦しさは、もしかすると、ひとつの時代とか様式を打破して新たなものを打ちたてようとしていた、若い芸術家達の、すさまじいまでの探究心と熱意、内的な情動を表現するには自らの手の動き(ペン、模型、筆などのアナログな手段)しかないということに対する無意識の苛立ちのようなものを、展示作品から感じてしまったからかもしれません。彼らの手仕事から生み出される作品や工業製品は、彼らの時代の技術の先を確かに羨望しています。


現在は彼らが生きた時代とは比べ物にならないくらいに、表現技術は発達しました。しかし、そこからは、彼らが感じていたかもしれない、芸術と技術の限界を巡るような「苛立ち」は感じられません、技術の進歩のスピードが余りにも速いからでしょうか、あるいはあまりに豊かだからでしょうか。


開催は7月21日までです。

2008年7月4日金曜日

[演奏会]コバケン&新日フィル:ベト7+チャイ5


本日は、とある企業が主催する公開録音に招かれ、すみだトリフォニー・ホールにてコバケンと新日本フィルハーモニー交響楽団による、ベト7とチャイ5を聴いてきました。自分でお金出したわけではなく「ご招待」なので、偉そうに感想を書くのは憚られます。サラリと述べるに留めましょう。


��月以来、音楽活動も非常にプアーな状況でしたので、久々の生オケは充分に堪能できました。曲も曲でしたし。ベト7は、少しもったりと重いかなという印象でしたが、チャイ5ではコバケン節炸裂ですね。パワフルな曲を続けてですから、オケの皆さんを始めコバケンもお疲れのことでしょう。


昔はチャイ5命みたいなところありましたが、このごろはほとんど聴きません。久しぶりに聴くと、あまりのストレートさに気恥ずかしくなるほどですが、それなりに「スッキリ」感は得られ、まずまずといったところでしょうか。


しかし、これを期に音楽活動が活発になることは、ちょっとなさそうですね・・・。


2008年7月3日木曜日

[立読み]岡崎太郎:1日3分「夢」実現ノート


またまた「自己啓発本」です。若かりし頃はこのテの本を忌避敬遠、嫌悪さえしていましたが、そういう考え方が非常に「傲慢」で「自己中心的」でしかないと、歳を経るにつれ思うに至り、チマチマと読んでいるわけです。相変わらず「手元に置く価値があるか」ギモンなので、立読みの斜め読みなんですが。


2008年7月2日水曜日

[立読み]山本ケイイチ:仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか


極東ブログで紹介されており興味を持ち、amazonのカスタマーズ・レビュでもタイトルの割には「結構まともな内容」という評価。この手の本は無視するわけにもいかず、といって買うほどの内容かはギモンなので立読みの斜め読みです。



成る程、非常にポジティブな内容。何のためにトレーニングをするのかという目的意識を明確にし、確実に成果を上げるトレーニングを実施するという方法論は、ビジネスにも通じる、これからは「IT」「英語」「筋肉」(笑)なのだと。


そりゃあ確かです。しかし、これでは「仕事が出来る人がなぜ筋トレをするのか」ではなく「仕事が出来る人はやっぱり(しんどい)筋トレも継続することができる」ということなのではなかろうか、と自問しながら読み進めました。ただ、そう言ってしまうのでは実も蓋もない。


これからの優れたビジネス・パーソンは、きちんと自己管理を行い、QOL(Quality Of Life)を高めていく生き物であるという、一点の曇りもない健全なる考え方にも感銘を受けました。そういう人間になるべく自己改造することが大事なのだと。それにしても、この手のポジティブな本が書店には、本当に溢れていますね。


なお、さきに紹介した「極東ブログ」の書評のような「グロテスクな側面」は、あまり強く受けませんでした。興味のある方はご一読を。

2008年7月1日火曜日

グループ展:RDER RECEIVED

ブログ「弐代目・青い日記帳」で紹介のあったMIZUMA ART GALLERYで開催されていたグループ展『ORDER RECEIVED』に行ってきました。会田誠、池田学、鴻池朋子、天明屋尚、山口晃の5名の作品が、上目黒の画廊にひっそりと展示されていました。(MIZUMA ART GALLERYーやグループ展の概要はTakさんが詳しくレビュしています)

平日の17時頃に行ったためか(当然、仕事を早々に切り上げてです)、観覧者はほとんどおらず、それゆえにマジマジと食い入るように、山口さんや池田さんの作品を眺めることができました(ああ、幸せ)。

私の場合、目当てはやはり山口晃氏です。今回は昨年の練馬区美術館でも展示されていた「成田空港」を初めとして5点ほどが出品されていました。間近で見ると、絵の緻密さと構成力に改めて驚くばかり。本当によくもまあ、チマチマと、あんなに描けるものです。人物がわずか2.5cmくらで表現されているのです、1/70スケールといったところ。凝った仕掛けもあちこちにありますから、近づいたり拡大したりして観なくては面白さが半減するんですよね。深い精神性とか、いやらしい批評性は感じられず、ただひたすらに「細かい」「メカメカ」「チマチマ」に徹しているところがすばらしいです。

チマチマ描くといえば、池田学さんもしかり。動植物や人物を、細密なペンで描くその手腕は職人的と言えます。そして、そこには絵でしか表すことの出来ない対象の再現と再構築があります。

会田さんの作品(写真)も奥の部屋に展示されていましたが、相変わらず毒の強いこと・・・。しかし会田氏とて、彼の世界観を構築するために、チマチマとした作業を組み立てているのだなあと思うと、作品としての毒とか逸脱とか攻撃性も、製作行為という偏執的執念とクソ真面目さの産物であり、そこまでして表現せざるを得ない作家の内実に、見ていて息が詰まるような思いになることも否定できないのでした。

こうしてみると、画家とかアーティストってのは、常人には及びもつかないような想像力と根気を武器とし自分の好きな世界を造っていくという、自己中心的にして単純(?)な快楽原理に支配されている生き物であるなあと、つくづく思い、またしても軽い羨望と疲労感にも似たため息を吐いてギャラリーを後にするのでした。






2008年6月13日金曜日

iPhone2.0の続き雑感

先に携帯のデザインについて書きましたが、Docomoの携帯にはデザイン的に物欲を誘う製品が少ない。PRADA Phone by LG などというものも発売されていましたが、お値段も結構なものだったと記憶しています。iPhoneを200ドル前後で発売するということは、デザイン製品に対する価格破壊のような感触を覚えます。

デザインは言うまでもなく、基本機能に対する付加価値です。付加価値はブランドイメージそのものでさえあります。そのデザインのために消費者は多少不便でも金を惜しまない。そしてそのデザイン(ブランド)を有している自分の立位置を内外ともに明示することで自分の中の何かを守っています。これはデザインに拘らないという逆の立場も含めて。

そういう顧客心理があるからこそ、付加価値は高く売れる、値引きしない。しかし、Appleのように「良いデザインを普及させたい」あるいは「デザインこそが全て」という意志または思想は、上記のようなコンセプトをある程度侵食します。

iPhoneの普及目標は、たかだか世界シェアの1%です。しかし、その1%の秘める大きさに、私は期待するんですけどね。iMac使って、本当に世界観が変りましたよ。(>というテクストを書いているマシンは相変わらずPCだけどね)

2008年6月11日水曜日

iPhone2.0発売

Appleが7月11日にiPhone2.0を発売するとのこと。日本の発売日が懸念されていたが、先日の報道では米国と同時発売とのこと。

米国では、1年前のiPhone発売のような衝撃はないようです。それでも、S.ジョブスがiPhoneが高すぎたことを反省し、値段を半分近くにまでしていることには、非常なる意欲と野心を感じます。

日本の場合、独自に進化した、そしてある意味において歪な「ケータイ市場」にあって、iPhoneがマニアやガジェット・ヲタクの購買以上に普及するかは、私には予測できません。ワンセグなど何時使うの?と思っていた機能も、広く普及してしまうと「ついていて当然」と感ずるようになります。誰かも書いていたように、「使わなくても機能としてある」ということは意外と重要だと思うのです。電子マネーもそうですね。「やっぱ、日本のケータイの方が便利」という方は多かろうと、付爪をしている女性方を含めて・・・。

しかし、それではあっても、私はiPhoneの日本発売に期待しています。言葉は悪いのですが、女子供をマーケットにしているとしか思えないケータイ文化の中に、スマートフォン文化が進入するきっかけはなるのではないかと。そして、何よりもガジェットとして美しいし洗練されています。日本のケータイが、いやブラックベリーを始めとしたWindowsケータイが決して追いつくことのできない文化をそこから感じるからです。

2008年5月1日木曜日

キリストの棺~世界を震撼させた新発見の全貌


キリストが実在の人物であったか否かに、個人的な興味はありません。義母が読んで面白いからと読み始めたのですが、私にはいまひとつ。


とにかく本としては完成度が低すぎます。「誰が」文章を書いているのかはっきりしないといった、テキストの主体性の問題もありますが、一番気にかかるのは、学究的信頼性。それは、数多の考古学者が「無視している」という、彼らの主張の異端性にあるのではなく(筆者らは、そこに「酔っている」フシもあります)、彼らがよりどころとする「統計的根拠」。あの程度の分析では素人の域を出ておらず、化学分析も全くお粗末なもの。


ネタとして、飲んだときの話題にはできますが、真面目に信じるには、胡散臭さを全く拭いきれず。結局は関係者の熱意とは裏腹な、時間つぶしのエンタテにしかなっていないのが残念。ウソであっても、もう少しうまく騙してよといったところ。


もともとディスカバリー・チャンネルの考古学ドキュメンタリーとしての企画調査ですから、限界もあろうかと思います。実際の放映を観たならば、印象は感想はかなり違ったかもしれません。学究的価値があるのならば、別なスタッフによるもう少し真摯なフォローを期待したいところです。


Amazon


2008年3月27日木曜日

[立読み]成毛眞:本は10冊同時に読め!


サブタイトルが『―生き方に差がつく「超並列」読書術 本を読まない人はサルである!』。 かように、非常に自己主張の強い本です。本(本書ではない!)を読む人と読まない人では圧倒的に差がつくと。



「普通の人と同じことをしていては一般人から抜け出せない」「40歳で「庶民」となるか、それ以上に行けるかが決まる」「本を読まない人とは付き合うな」などの主張には違和感も覚えます。私も40後半、「庶民」を脱することはできませんでしたし、そもそも「庶民」を脱しようなどと、考えたこともなかったですから。


このテの本がいつもそうであるように、氏の読書法には何も目新しいところはありません。10冊併読しろ、ジャンルはバラバラで読め、本は最後まで読むな、あるジャンルの本は大人買いしろ、ハウツー本は読むな(捨てろ)とか・・・。他の誰かも主張しているような内容です。普通の読書人なら自らやっていることばかり。この点に読むべきほどの内容はありません。


「本を読むときは、線は引かない」「本に書き込みしない」「三色ボールペンなんて、ましてや使わない」「買った本は捨てない」「メモなんて取らない、まとめもしない」などという氏の方法論も展開していますが、これも余計なお世話。松岡正剛氏は本の中にたくさんの線や書き込みをしますし、三色ボールペン齋藤孝氏は何と言うか、勝間和代氏は買った本は(彼女のお住まいが狭いとは思えませんが)バサバサ捨てているようですし、レバレッジ本田直之氏にも異論はあるでしょう。結局、方法論なんて個人によって万別です。


氏は子供時代からの1万5千冊以上の蔵書を捨てずに保管しいるとのこと、うらやましい限りです。本へのお金のかけ方も、(勝間氏も立花氏もそうですが)尋常ではありません。


私はこの春の引越しにより、子供時代からの本を(泣く泣く)ほとんど二束三文で売りさばきました。「耳をすませば」の月島雫の父(月島靖也=声は立花隆)部屋?のようになってしまうのは嫌でしたし。


かように意味で刺激的な本ですが、本書も「成功者のハウツー本」の域は全く出ていません。成毛氏や勝間氏的に言えば、「本屋で前書きと目次を読み、気に入ったところだけササっと読んで次にいく本」であることに変わりありません。私も書店の立ち読み20分で済ませてしまいました。


アマゾンでは10冊併読の読書術の記述がないとのコメントがありますが、本書はマニュアル本ではありません。サル化してきた日本人に対するアジテータ本なんですね。「成功者のマネをしている限り(これもサル)一生それ以下にさえなれないよ」と、一応成功者である著者が主張しているわけです。一種のトートロジーですね。


本書に同感するところがあるとすれば、本が与えてくれる世界の広さを熟知した、本に対する愛着の深さ、本は勉強のためのものではなく人生を豊かにするためのものという楽観的な考え方でしょうか。それなのに明治の文豪を読む価値なしと断ずる神経は、私の理解を一万光年くらい超えています。成毛氏の精神は豊かなのか貧弱なのか、その結論は先送りです。


※立ち読みですので、文中の著者の主張は、記憶に頼ったものであり、本文からの引用ではありません。

2008年2月24日日曜日

桐野夏生:残虐記




私は桐野氏の作品を、一貫して「女性のサバイバルの物語」という読み方をしてきました。本作品も、少女監禁事件を題材としていながら、監禁された少女(当時小学校4年生)と、その後の人生における、彼女のサバイバル戦略が描かれているという点では、他の桐野氏の作品と同列のものでしょう。


しかし、ここで描かれているサバイバルも、今までの大作と同様に極めて過酷な物語になっています。




監禁生活における、少女が考え出した狡猾なる男との関係性。そして、解放された後、世間の好奇と興味にさらされ、喪失した現実と折り合いを付けるために、彼女が見つけた「毒の夢」。その彼女だけの逃避的現実であった世界さえ、成人の男たちの静的な妄想の沼(P.164)と気付いたときの深い絶望。


それ以来彼女は、「性的人間」になったと書きます。ここでの「性的人間」とは常に、ケンジの性的妄想とは何か、という問いを生きることであり、他人の性的妄想を想像することだと。


彼女の唯一の武器は想像力。奪われたものに対して唯一立ち向かえる力。ですから、そこには真実など、もとからないのかもしれません。執拗に彼女を追いかけた検事 宮川が、ぼくの欲しいのは真実じゃない(P.224)と言います。


考えてみると、この小説そのものが、リアルの衣を纏いながら謎と嘘に満ちています。この小説を読もうとする読者の意図そのものが、性的好奇心と妄想であることを嘲笑うが如く。小説の結末を「救われない」と書くこさえもが、もしかすると間違いなのかもしれません。余りにもうがたれた闇は深く、しかもある意味で強靭なのです。

2008年2月23日土曜日

[立読み]一日30分とか効率を10倍とか・・・ハア=3


とりあえず、ざっと読んだ啓発本の感想など。あまりマジメに論ずる気もありませんので、防備録程度。amazonにもレビュ載せてますが、白状します。買ってません、立読みですm(_ _||)m


感想も、褒めているんだか貶しているんだか・・・。せっかくアマゾンリンク貼ったって、こんな感想読んで本書を買う人なんていませんよ!


古市幸雄:「1日30分」を続けなさい!人生勝利の勉強法55


このような書が読まれ売れるということは、世に勉強しない人が溢れていること、手っ取り早く知識を身につけて効果を出したいと思っている人が多いからとの指摘は、ある程度当たっていよう。


本書に書いてあることは、確かに「当たり前のこと」ではあるが、例えば勉強の効果は、ある程度経たないと目に見えてこないとか、英語学習はそもそも勉強時間の絶対量が圧倒的に足りないということは的を得ている。


不勉強なる私は、本書を読んでから、英語などをマスターするには「絶対時間しかない」と再認識した次第である。そう思い知るだけでもタメにはなった。


つまりは今までの自分が「甘かった」だけのことであるが。ただ、いつ「臨界点」を越えられるのか、本人には分からないのがツライところである



古市幸雄:「朝30分」を続けなさい!人生勝利へのスピード倍増!朝勉強のススメ


前書と内容のかぶるところが多く、この本を出版した主旨が良く分からない。大事な点を強調したいなら、前書を繰り返し読んで、あとはひたすら実践するだけで良い。勉強法というのは、本来的に人に教わるものではないと思っている。


それでも敢えて書いたとしたら、前書に対する筆者への批判が多かった故だろうか。


「当たり前のこともできないよう(な奴に)では、応用問題なんてできない」「勉強法の勉強ばっかりやってんぢゃねーよ」「さっさと勉強始めろ」「勉強が続かないのは強いモチベーションがないからだ」


痛い指摘ではある。人により何を勉強するかは異なるだろう。ただ、「勉強しない輩=負け組」とする論には反発も多かろうと思う。またその反発の源は勉強も出来るしその努力もしている優等生から正論を吐かれているときに感じる違和感であろうか。


アマゾンレビューにも批判は多いが、筆者の言っていることは、基本的には間違っていないと思う。





勝間和代:効率が10倍アップする新・知的生産術―自分をグーグル化する方法


勝間氏は尊敬に値する人物であるとは思う。しかし、本書は美味しくいただけない。読んでいてとても疲れる。


彼女は本書のようなガジェットで武装しなくても、もともと恐ろしく情報処理能力が極めて高い方なのであろう。そんな彼女の場合は、ちょっとしたツールの使い方でさらにその処理能力が倍増するというわけだ。


しかし一般的な我々は、それほどの情報量を必要ともしなければ、処理する必要もない。「情報洪水といってもそんなに浴びてないぢゃない」との指摘は、まさに彼女が成し得る一般人に対する指摘である。


この本のは「彼女のように極めて成功した人」はどうやって生まれたのかの一端を垣間見せるもので、立花隆氏の「ぼくはこんな本を読んできた」みたいなものである。成功者のメソッドを知ったところで、刺激にはなるが全てをマネなどできない。また全てマネできたとしても、勝間氏になれるわけでもない。


とはいっても、何かとてつもないパワー(刺激)を得たい時に読むには本書は非常に効果があるとは思う。パフォーマンスの上がらないとき「そうか!自転車はペダルを踏むときだけぢゃなくて、戻すときも漕ぐものなのか!」と思い出すだけで効果・倍・・増・・・、やっぱり、疲れそう=3 凡人はダメね。


2008年2月21日木曜日

モネとゴッホが見つかったようです!

盗まれた4点のうち、モネとゴッホの2点が見つかったようです。2点は傷もなく良好な状態とのこと。CNNによりますと、

A parking lot attendant at the Psychiatric University Hospital in Zurich found the paintings Monday afternoon in the back of an unlocked white car, police said.

It was not clear how long the car, an Opel Omega with stolen license plates, had been parked on the lot, police said.

"The two paintings, worth about 70 million francs($64 million), are in good condition and are still protected by the original glass covering," police said in a statement.

とのことですが、これ以上の情報は今のところネット上にはなし。お目当てはセザンヌだったんでしょうか・・・?

2008年2月18日月曜日

Red Priestの「四季」


Red Priestとは「赤毛の司祭」、まさにヴィヴァルディのあだ名をアンサンブルの名にした、イギリスの非凡なるバロックアンサンブル*1)。昨年は「パイレーツ・オヴ・ザ・バロック」とか銘打って日本公演も行ったみたいです*2)



Red Priest's Vivaldi's Four Seasons

Piers Adams(Recoder),Julia Bishop(vn),Angela East(vc),Howard Beach(cemb)

Dorian Recordings PR003






かつてアーノンクールの、そしてイル・ジャルディーノ・アルモニコの「四季」にもびっくりしものですが、本盤も勝るとも劣らぬオドロキの演奏です。


曲の冒頭を聴いたときは、こいつはちょっとキワモノで間違えたかと思ったものの、一瞬にしてそんな杞憂を吹っ飛ばす演奏!この鋭さ、この躍動感、そして楽しさ。耳タコの「四季」に新たな一枚が加わったといった感じ。


特にPiers Adamsのリコーダーは超絶的で度肝を抜かれます。ソロ・ヴァイオリンのパートを、凄まじいテクニックで吹ききります。その爽快さ、快感、愉悦。リコーダー的な晦渋さ、重さ、愚鈍さは微塵もありません。イカした野郎が踊りまくっています。


Amazonレビュで*3)冬の暖炉の火のはぜる音がレゲエのリズムに近くなっているのはちょっとやりすぎかもしれないと書かれている方がいましたが、冬の第二楽章。リコーダーなしの演奏ですが、もはやクラシックに聴こえませんね、私は悪くはないと感じましたが。


アルバムには「四季」をイメージする詩も添えられており、ゆっくりと解説を読みながら再聴したいところ。
コレッリの「クリスマス協奏曲」も同時収録されています。


  1. 公式HP→http://www.piersadams.com/RedPriest/index.html

    Pier Adams公式HP→http://www.piersadams.com/PiersAdams/index.html
  2. アレグロミュージックによる日本公演HP→http://www.allegromusic.co.jp/RedPriest.htm
  3. Amazon.co.jp→http://www.amazon.co.jp/gp/product//B0000CERI1/

2008年2月17日日曜日

スイス最大の絵画盗難事件


2月11日の報道によりますと、スイス・チューリッヒのビュールレ美術館(Buehrle Foundation Museum)から10日に、セザンヌ、ゴッホ、ドガ、モネなどの名画が武装した3人の男達により盗難にあったとのこと。総額175億円(180 million Swiss francs (EUR112.4 million))にものぼる被害額。スイスの美術品盗難事件としては最大規模。先週ピカソの作品が盗まれたばかりです。



被害額よりも、セザンヌのかの有名な「赤いベストを着た少年(The Boy in the Red Ves)」が盗まれたというのは、かなりショッキング。




モネの盗品は「ベトゥイユ近辺のひなげし(Poppies near Vetheuil)」(1879年)という、これまたモネらしい初期を代表する作品。


あとはドガの「Viscount Lepic and His Daughters from 1871」とゴッホの「Blossoming Chestnut Branches from 1890」



日本の新聞では詳細が分かりませんので、とりあえずGoogle Newsで海外記事を検索してみましたが、続報を含め情報が非常に少なく、日本の報道に毛の生えた程度。それでも、いちおうまとめておきましょう。


警察の報告によると盗難は下記のような様子だったらしく。


the three-strong gang who were wearing ski masks and dark clothing entered the museum half-an-hour before closing on Sunday.


One of the robbers used a pistol to force museum personnel to the floor, while two other members of the gang went into the exhibition hall and collected the four masterpieces.(Mirror.co.uk)


これらの作品は、美術館長Lukas Gloorによりますと、among the most prized in the museum’s 200-piece collection.とのこと。さらに彼の説明によれば


the stolen paintings were so well-known that “on the open market, these pictures are unsellable.”
(The News)

盗まれた絵の画像を確認するまでもなく、あまりに有名な作品ですから当然でしょう。ただ、Art Loss RegisterのスポークスマンMaja Pertot Bernardは次のように言っています。


"Very often when paintings like this are stolen they are used in the criminal underworld as collateral, say to repay a debt,"(OTTAWACITIZEN.COM)


また事件の調査官は「オーダーされて」盗まれたわけではないと指摘しています。なぜならば


they were hanging in a row and the thieves seemed to have simply removed what they could.(gardian.co.uk)


絵画はガラスパネル越しに展示されており、盗人達が作品に触れた途端アラームは鳴ったのだそうで。警察がすぐに駆けつけたものの盗人達は既に逃走した後。15人ほどの見学者が上の階に居たそうですが、何が起きたのか分からなかったそうです。Lukas Gloorも調査官と同じような発言をしています。


they appeared to have grabbed the first four they came to, as they left even more valuable works hanging in the same room.(Telegraph.co.uk)


下調べはしていたようですが、とりあえず高価で手近な作品を急いで盗んだようです。その後、美術館の前に駐車しておいた白い車に乗って逃走しています。


“We had done everything we could to protect the paintings to the best of our knowledge and capability.”(guardian.co.uk)


とLukas Gloorは言っていますが、美術品盗難があるたびに警備や保護体制が問題になります。今回も武装した強盗による短時間の犯行ですから、美術館に入るのに金属探知機やら持ち物検査でもしないといけないのかもしれません。




ちなみにビューロー・コレクションは故Emil Georg Buehrleが第二次世界大戦の最中、ナチと同盟軍に対して武器取引を行って財を成して作り上げられたものだそうです。

2008年1月28日月曜日

木村剛:投資戦略の発想法




まったく、らしくもない(というよりブログ主旨にふさわしくないような気もする)のですが、これも読んでいたので取りあえず個人的メモということで。


木村氏については賛否両論ありましょうが、本書は非常にマジメな投資の本です。今まで紹介してきた本と、基本的なスタンスは同じです。投資はギャンブルではない、チャート分析やファンダメンタルズ分析などに必要以上に時間をかけるなと。





まず最初から辛辣です。自分の資産と負債を根拠とともに書き出せないようなら、そもそも投資をする資格はない。リストラや倒産などの最悪の事を考えて2年分の生活資金(安全な流動資産)をまず貯めろ、それさえ出来ないなら、投資なんてする資格がない。住宅を借金して買っている(=負債)くせに投資するのも愚の骨頂、先に借金を返せ。最大の投資は節約だ、などなど・・・。こういう実も蓋もない話題が最初は続くのですが、非常に最もなことです。要は金利、利回りを含め、お金に敏感になる必要があるということです。もちろん時間にも。


以上をクリアした上で、資産を国内株式と国債、外貨預金の三分割ポートフォリオで組めと説きます。株はインデックスファンドなどの投資信託よりは、20銘柄程度を自分で選ぶのが良いと。ここら当たりは、内藤忍氏の考え方と若干異なりますが、それはあくまでもテクニカルな問題でしかありません。


投資本を読むと「サルのポートフォリオ」がよく引き合いに出されますが、選ぶのが難しければ、再就職するとしたときに自分が入りたい会社の株を買え、その会社に再就職するリスクよりはその会社の株を買うリスクはずっと小さい、というの指摘にはハッとします。逆に考えれば、ストックオプションなど持てなくても、自分を高め、自分の会社の企業価値を高めることが最も重要な投資であると自ずと気付くというわけです。


住宅を資産と考えず、負債と考えるのは、ロバート・キヨサトなどとも同様。ここも異論は多かろうと思います。


資産を蓄える方向の議論が多く、キャッシュフローに関する記述が少ないのは内藤氏や勝間氏にも共通していましょうか。あと木村氏の本は投資哲学は学べますが実践となるとちょっと弱いところもあります。


いずれにしても、自分の資産は自分で守るということは、これからの時代、いくら強調してもしすぎることはないと思わせるに充分な本であります。それにしても、勝間、内藤、木村氏とも「おいしい話が転がっているわけがない」「ローリスクハイリターンなものなどない」ということをしきりに強調しますが、世の中騙されている人があまりにも多いのだなと・・・。


本書も、2008年版とかがあって、マイナーチェンジで効率的に印税をかせいでいるようですが、そういうことは考えないようにしましょう。

2008年1月27日日曜日

内藤忍:資産設計塾、実践編







投資に目覚めたわけでもありませんし、そのテの話題を本サイトで続けるつもりもありません。



しかし、昨今の世の中の変化のスピードは極めて早い。昨年のサブプライムローン問題に端を発した、米国の景気のリセッションの懸念、楽観的過ぎたデカップリング論、BRICs諸国の猛烈な発展、さらにはアフリカも目覚め始めた。パキスタンだってテロと内政不安が続いているが、実は人口も多く発展のポテンシャルは高い。相対的に日本の国際的な地位は著しく低下してきている。かくもグローバル化した社会は猛烈なスピードで動いています。


日本は年金制度は完全に崩壊し、借金(国債)は増えるばかり。それなのに、どの政党も明確な財政圧縮手段さえ示すことができない。国民には何が真の情報なのかさえ分からず、聞こえてくるのは負担増のみ。個人にとって最大の負債である住宅の価値は35~40年程度しかなく、とてもではないが資産になどならない。それに輪をかけての留まるところを知らない偽装連鎖・・・。世界的に見ても非常に豊かな国であるはずなのに、どこか閉塞感がある。


戦後日本が作り上げたシステムは完全に制度疲労しており、大きな変革か衰退しかないのではないかと思いはじめました。そして、もはや、自分の資産は自分で守る時代に、とっくに突入していたのだと感じているこの頃です。


そういう意味から、自分の資産を見直すためにボチボチ本を読んでいます。


巷間に多くの投資本が溢れる中で、本書は堅実な長期的投資を指南する良書です。投資の考え方や基本的な商品について丁寧に解説しています。チャートによる商品の売り買いのタイミングという話しは殆どなく、人生と資産のアロケーションの重要性が強調されています。


氏の投資哲学は投資が目的ではなく、人生の目標を実現させるための手段であると捉えていること。従って単なる「金儲け」ではなく、自分の目標に合った資産設計を行い、必要以上のリスクと(投資関連に費やす)時間を取り過ぎないことを強調しています。あくまでも最終目標は、自分のやりたいことを実現させるためにお金を増やすのだということ。投資は趣味や楽しみではないのだと。


「実践編」は、前作と被る部分がかなり多く、表の数値も殆ど同じでオリジナリティが少ない。前作が良書であっただけに、非常に残念です。これも投資の基本である「レバレッジ・著作術」とでも評すれば良いのでしょうか。


2007年発行ですが、昨今のめまぐるしく変る経済情勢を考えるとちょっと記述が古く感じる点もあります。どちらか1冊あれば充分だと思います。

大前研一:大前流 心理経済学




副題は「貯めるな使え!」と刺激的なキャッチ。要は1500兆円にもなる個人金融資産を眠らせることなく、有意義に消費、投資にまわして日本を活性化し、自分の人生をより良いものにしろというメッセージ。
もっとも「大前流」とあるように「心理経済学」という点の内容は残念ながら浅い。





ここでも日本人の多くが自分の資産さえ把握していない不思議(P.125)に警鐘を鳴らしています。把握していないのではなく、今まで把握する必要がなく、陰謀論的には把握させないように誘導されていたのかも知れませんが・・・。


氏のメッセージは強烈なのですが、一方で個人金融資産1500兆円というところに読者の生活実感がどこまで合致するか疑問です。


大前氏も高齢者から若い世代に資産を移す(P.159)と指摘しているように金融資産は高齢者に偏っています。本当にお金の必要な若年層は資産より負債の方が多いのが現実でしょう。そこで大前氏は、資産移動のために贈与税の改革と生前相続制度を挙げているのですが、現実味が少ない。というのも、資産はもはや年齢だけではなく、階層に偏在しているのが日本の現状なのではないかと感じるからです。


前提の1500兆円に関する詳細な分析がないだけに、資産ギャップを感じる人には、ほとんど空論と写ります。


それでも、多少雑ではあるものの、見逃すことのできない指摘も多い。たとえば「第6章 心理経済と集団IQ」。


シンガポールの生き残り戦略などを紹介しながら、日本の旧態依然とした地域利益重視型島国政治によって、国際社会から完全に取り残されつつある現状を活写しています。また最近話題になり始めた政府系ファンドについても言及しています。


かように海外はめまぐるしく変化しており、スピード感は驚くほどです。今の日本政治が完全な機能不全に陥っていることは日々接するニュースや仕事からも実感として感じることです。アメリカの大統領予備選の報道ぶりを見るに付け、日本の政治風景の不毛さを思い知ります。


日本がこのまま国際社会での地位を急激に落としていこうとも、多くの人たちは日本に住み続けなくてはなりません。その中で幸福を追求するには、「無知」と「怠惰」を戒め、自ら主体的な個として生きなくてはならないということなのでしょう。


正月からいくつかの投資関連本やら自己啓発本を読みましたが(梅田望夫の「ウェブ時代をゆく」も含め)、共通して感じたことは「お金の運用」の仕方ではありません。「投資」ということの持つ意味と、自分の人生に対する積極的関与の重要性です。私たちは、より良く生きるために「投資」を怠ってはいけないのだと。

勝間和代:お金は銀行に預けるな




本書の主旨は「金持ち父さん 貧乏父さん」(→レビュ)と重なる点が多い。それは投資方法論においてではなく、「金融リテラシー」を身につけて前向きに生きようという強いメッセージを発している点においてです。




今までは、お金の事をあからさまに話したり「お金にお金を生ませる」「不労所得を得る」ということは、金持ちのやることとか、さらには罪悪感さえ覚えるような雰囲気があったものです。


しかしグローバル経済の影響を嫌でも受けるようになった現在、お金に無頓着であることは自分の人生の一部を放棄しているに等しいことです。日本人の教育の中で、自分の人生に対する「資産設計」という考え方が著しく欠如しています。


「金持ち父さん~」でも書かれていましたが、「とりあえず、良い大学に行って、良い会社に入って」が人生設計を確実にするものと、ついこの間まで信じられていました。それだけが選択肢ではないことを、私たちはバブルの前後で嫌というほど見せつけられ、今もその延長の中に居ます。


学校では金融知識や資産設計を教えてはくれません。お金に無頓着であった人には良いきっかけを与えてくれる書です。金融知識をしっかり身に付け、自分のスタンスと人生設計をすることは今からであっても遅くはないことを教えてくれます。


もっとも一通りの金融知識を身につけた人にとっては目新しいことは何も書かれていません。また投資で一発大もうけをしたい、という人のための本でもありません。分散投資、アセットアロケーションを中心とした長期運用で資産を増やすという人のためのものです。


そういう意味では良書ですが、さらに(More)を求めたい人には異論もある内容かもしれません。

小川洋子:ブラフマンの埋葬




サンスクリット語で「謎」を意味する「ブラフマン」と名づけられた小動物と、<創作者の家>という施設の管理人をつとめる主人公との物語。タイトルにあるように、最後には「ブラフマン」に死が訪れることを読者はいやが上にも最初から知らされています。それゆえに「ブラフマン」の温もりが痛いほどに伝わってきます。


物語の軸は、確かに「僕」と「ブラフマン」の純粋な愛情です。しかし単なる動物との交流物語に陥ってはいないところが、小川洋子氏の小説世界。






物語を支配するのは静謐さ。その静謐さの下には、美しさと醜さ、人生に対する不気味と諦め、愛と性、生と死さえも横たわっているかのようです。それらは泉の底の沈殿物のように普段は表面に現れてこない。


ふとした拍子に、泉の表面にさざなみが現れて、下にあったものが露呈することがあったとしても、しばらくすると、全ては押し流され再び静寂と静謐だけが支配する、時間だけは無情に淡々と流れ・・・。


深い悲しみも、絶望も、欲望も、葛藤も、およそ小説のテーマとなるような物語や感情は何ひとつ提示されてはいません。登場人物の描写もひどくそっけない。このような確信的とさえ思えるような描き方をすることで、淡々とした人々の営みと命の物語は、逆に深く心を捉え、蝋燭の仄か光のように心を暖めてくれます。そして、小説を読む愉悦を思い出させてくれます。

2008年1月15日火曜日

歌舞伎座:新春大歌舞伎


先日、歌舞伎座の夜の部を観てきました。演目は「鶴寿千歳」「連獅子」「助六由縁江戸桜」。私は歌舞伎を観始めてそれ程たっていませんので、所謂歌舞伎十八番の中でも有名な「助六」を観るのは今回が初めて。成田屋演ずる助六であれば観ずばなるまいと楽しみにして参った次第です。



「助六」の主な配役は、助六の團十郎、白酒売新兵衛の梅玉、揚巻の福助、髭の意休が左團次、そして曽我満江が芝翫であります。これだけでも何たる豪華な顔ぶれでありましょうか。


幕は團十郎が市川家のお家芸として重要な演目であることを口釈してから始まります。浄瑠璃は河東節十寸見会御連中、河東節は江戸浄瑠璃で二代目団十郎が助六を演じた時から使われているのですとか。


芝居のまず最初は、ご存知の通り意休と揚巻のやり取りが山場です。例の揚巻の悪態の部分、すなわち


意休さんと助六さんを並べて見るときは、こちらは立派な男振り。こちらは意地の悪そうな顔つき。たとえていわば「雪」と「墨」、硯の海も鳴戸の海も、海という字は一つでも、深いと浅いは客と間夫、間夫がなければ女郎は暗闇、暗がりで見てもお前と助六さんを取りちがえてよいものかいナァ


の部分。いやァ、気持ちが良い。客席もやはり喝采です。福助の揚巻は威勢がいいだけではなく、間夫である助六への気持ちが真に痛いほどに伝わってくる、なるほどに見事。


助六が登場するのは、随分と後になってからです。いわゆる助六の出は、笠をさした助六が花道で延々と踊ります。安い席で観ているので全く花道が見えず、これでは欲求不満になります、残念。


以前も書いたことがありますが、だいたいに、私は團十郎の芝居が好きです。彼のおおらかさ、ほがらかさ、大きさ、そしてユーモアを、彼が舞台に現れるだけで感じ取ることができます。彼が喋るだけで幸せな気分になります。今回は意休にわざとケンカをふっかける、その悪さ憎らしさ振りがハマっています。台詞回しは若干聞き取りにくいところがあるのですが、とにかくに楽しい。それを受ける、白酒売の梅玉も抜群、これぞ和事味というのでしょうか。


左團次の意休は、いまひとつ固いイメージの役づくりになっていましたが、これはどうなんでしょう。というか立派なんですよ、揚巻に言い寄るイヤな奴という雰囲気ではない。ラストでは助六を打ち据え意見までする。ゴロツキを敢えて演じる助六よりも数段格が上なんですよね。勉強不足ですが、こういう役柄なんでしょうか意休というのは。


満江の芝翫というのには驚きました(配役確認してなかったので)。こういう役は芝翫はうまいなあと、少しの出なのにしっかり親の情が出る。


という具合に2時間ちかくにも及ぶ古典劇ですが、正月らしい煌びやかな舞台であり楽しめるものでした。原作だけでしっかり面白いのですから、最近のお笑いの芸を取り入れて観客に媚を売る必要まではないと思うのですが、いかがでしょう。


「鶴寿千歳」は筝曲の舞踏です。筝が入るとお正月気分が沸き立ちます、音色を聴くだけで至福の気分。これも後半は芝翫と富十郎が踊るのですが、いやはやです。足元が危なくはないかとハラハラするのですが、そこはそれ、厳かに舞っています。踊りに衰えもあろうかとは思いますが、ヒシヒシとした緊張感を感じてしまいました。いったいに何時まで彼らの舞台を見られるものでしょう。


幸四郎と染五郎の「連獅子」は、2005年11月の吉例顔見世大歌舞伎以来。感想はあの時と変らないのでバスします。ただ、二度目ともなると、以前よりはよく舞踏の意味がわかってきましたので、その点、以前よりも充分に楽しめました。




2008年1月12日土曜日

'Rich Dad Poor Dad' と'Who Moved My Cheese?'

世に自己啓発本というのがあります。30代の頃は自己啓発本とかビジネス本を軽蔑とまではいかなくても軽んじていました。何を今さら他人に教えてもらうのだと、自分に自信を持っていたのでしょうか。ずいぶんと傲慢にして不遜、無知な考え方です。ですから、ベストセラーとなった、例えば「金持ち父さん貧乏父さん」とか「チーズはどこへ消えた?」みたいな本の存在そのものを長らく無視しておりました。


しかし、40歳を半ば近くなってきたころから、ようやく自分がそれほど優れていないこと、むしろ他人に対して著しく劣る部分が極めて多いことを思い知るようになり、その手の本を読むようになりました。まあ謙虚になってきたというのでしょうか。しかし、とは言っても、今さら、あれ程のベストセラーを手に取るのも恥ずかしい。


そういう見栄もあって、今年の冬休みは特に予定もなかったのでペーパーバック版で読んでることとしました。意外に日本翻訳本よりも安かったことも理由です。冬休み暇だし、ついでに英語読解力の向上も目指そうかなと。


もっとも、私の英語レベルといえば中学生のそれを超えないものです。基本的な単語力もないし記憶力も減退しまくっていて、本当に酷いものです。ですから、ちょっと苦労はしましたが、内容的には得るところはあったかなと。




Rich Dad Poor Dad by Robert T. Kiyosaki


Robert T. Kiyosakiのあまりにも有名な、投資に関する本ですね。私はそのタイトルから、もっと軽い内容なのかと思っていましたが、日本の数多の投資ビギナーに対する本よりも余程説得力がありました。文章は平易ですし、繰り返しがやたら多く、その点、Kiyosaki氏の論調が鼻に付いたり、飽きたりしてくるのですが、彼の主張はぶれません。


「お金のために働くのではなく、お金に働いてもらう」「お金にお金を稼いでもらう」という投資的発想は、例えば森永卓郎氏のように「本来はお金は働いて稼ぐもの」(年収崩壊―格差時代に生き残るための「お金サバイバル術」 )と考える従来型の人には、違和感と受け入れがたさを感じる部分でしょう。また、Kiyosaki氏の労働観も働くことを通じて自己実現を図るという考えを持つ人からは反発されやすい部分でしょう。まず説明される節税に関する説明も、なんだかなあと思ってしまいます。


「勉強していい大学に入って、いい会社に入って、老後は年金生活・・・」という生き方(すなわちPoor Dadの生き方)は、アメリカでも広く支持されていた生き方。それを真っ向から否定しているのが本書なんです。本書に否定的意見が出るのも頷けます。


それではあっても、彼の主張は説得力があるのですね。それは彼が人生に対して前向きで、リスクを恐れず、そして自分に最大限の投資をすることでリターンを得ているという強さがあるからです。まず真っ先に自分に投資しろ、というのは、お金に限らず全てに当てはまると思った次第。
Beginnings/Chapter Eight Overcoming Obstaclesという章では、投資を始める上での障害として以下の五つをあげています。



  1. Fear.
  2. Cynicism.
  3. Laziness.
  4. Bad habits.
  5. Arrogance.


あまりにも的確。それは財産の投資ではなく、人生に対する投資についてさえ言い当てています。




Who Moved My Cheese? by Dr Spencher Johanson


これまた、一時書店に山積みになっていましたよね。初版であったとしても、以前の私なら手にも取らなかったろうなと。しかし読んでみると、OVER 12 MILLION COPIES SOLD WORLDWIDEだけのことはあり示唆は多い。


アメリカ大統領予備選における今年の流行語ではありませんが「Change」がテーマ。変化にどう備えるか。変化を嗅ぎ取り、対処する。


これは、先の「Poor Dad Rich Dad」で書かれていた、リスクをコントロールするということ、あるいは、梅田望夫の主張する「けものみち」を行く(「ウェブ時代をゆく」)ということにも通じるように思えます。自己の責任において変化やリスクに積極的に対処する時代に、本格的に突入していることを、年末年始の読書は痛切に感じさせてくれました。


本書で一番痛かったのは、失われたチーズを探す本論ではなく、最初の章の下記の部分かな。


"When one of our senior executives, who was having difficulty adapting, said the story('Whe Moved My Cheese?) was a waste of time, other people kidded him saying they new which character he was in the story -- meaning the one who learned nothing new and did not change"


ウヘッ!! オレのことぢゃないか、ってね。




英語の方ですが、「Rich Dad Poor Dad」は、最初こそ慣れないのでちょっと戸惑いましたが、50頁も読むと(辞書は必要ですが)何とか読めるようになります。どうしても分からない部分は、何度か書店に行って確認しましたが(笑)。「Who Moved My Cheese?」は、前者よりははるかにやさしく、前書きにあるように、すぐに読めます。


さて、2冊を読み通すことで、私の英語力は向上したか? ネットサーフィンしてみる・・・、CDのブックレットを捲ってみる・・・!!!? 依然として、以前と同じく、全く歯が立たない・・・、前途は多難、今は新たに別の2冊に挑戦中なり。

小川洋子:博士の愛した数式




映画にもなって、小川洋子氏の名前を広く世に知らしめた代表作です。多くの人が彼女の独自の世界観に、そして作品内容の誠実さと愛おしさに感動したことと思います。


しかし、私にとっては、この作品はそれ程面白いものではありませんでした。





決して作品をけなすつもりはありませんよ、小川氏の小説家としての才能、そして彼女が小説に求めている核はここでも健在です。それを私なりに解釈すると、例えば彼女の短編にあった、ある「生」あるいは「命」を別の者がしっかり受け止めるとでもいうような、切なくなるような受け渡しと、そこに潜むやさしい喪失の物語でしょうか。


しかし、「薬指の標本」のような作品に認められた、背徳的なエロスとかタナトス、不気味さ、じわじわとした恐怖のようなものは、「博士の~」からは全く剥ぎ取られてしまいました。


今までに読んだ短編(ごく少ないです)の、ネット上レビュを読むと「何を書いているのか分からない」という感想がチラホラ目につきます。確かにラストを放り投げたようなものや、未完に感じられるものもあります。私にとっては、そういう「異色さ」が小川氏を他の作家との隔てているものであり、そこに魅力を感じていたのですが、小川氏は「異色さ」を主として作品を書いてはいないものの。


彼女の作品は翻訳もされ海外でも評価されているようです。村上春樹と同様の無国籍性と無臭性を感じる部分です。小川氏の作品のどこが評価されているのか詳しく調べたことはありません。それでも、国内においては「博士の愛した~」が最も彼女の名を広く知らしめた作品だというのは間違っていないでしょう。「異色さ」を剥ぎ取っても、一層に万人受けしたのですから、やはり確かな才能なのだと思います。


記憶を80分しか維持することのできない数学者という突飛な人物が主人公、その存在そのものが「異色」といえば異色です。数学はつけたしではなく、それも数論という分野の持つ特殊さと純粋さを作品は見事に吸収し消化してます。


しかし、そうであっても残念ながら、私にとって本作が小川氏の作品の初読であったならば、他の作品を続けて読もうという気にはならなかったかもしれません、ひねくれていますかね。

2008年1月7日月曜日

年頭に当たってのメモ


Clala-Noteというカテゴリーがあったのを、すっかり忘れていた。とりあえず年頭に当たってのメモである。ごくごく、個人的なメモということで。

アメリカの大統領選を占う1月4日のアイオワ州党員集会では、民主党についてはオバマ上院議員が、ヒラリー氏などを抑えて圧勝した。「変化」を求める主張が、若者を中心に地すべり的な支持を得たとの解説が目に付く。アイオワの結果だけで全てを占うことはできないものの、今後の行方は興味深い。

それにしても「変化」か! 数年前の小泉政権を生んだときの熱気を、懐かしく思い出す。今の日本の政治風景は、あまりにもあの時と違っている。「劇場型政治」がやっと終わったと胸を撫で下ろす良識派が居ることは知っている。私も小泉政権には幻滅したクチだ。それにしても、日本政治のダメさ加減よ。

年末のパキスタンのブット首相暗殺には、遂にという想いとともに、残念な気持ちでいっぱいである。パキスタンは昨年9月から、テロ特措法からみで内外の新聞をウォッチしてきた。今年の総選挙を睨んで9月10日にシャリフ元首相が帰国を企てたものの、パキスタンの地を踏むことさえできず、空港から国外追放された頃からだ。10月18日、熱狂と爆薬に迎えられブット氏は帰国した。二人の帰国に対する戦略の違いは、海外のメディアで話題となった。西側受けするブット氏はBBSを始めとするメディアで強くパキスタンの将来について語っていた。

ムシャラフ氏が99年に権力を握ったときのパキスタンは政治的に孤立し、経済も破綻状態だった。穏健で近代的な国家建設に向けて方向転換をしたのは確かにムシャラフだったらしい。だから、NEWSWEEK 11.21(日本版)の「PAKISTAN'S PINSTRIPE REVOLUTION」という記事が指摘した、「ムシャラフVSブットという構図は、あまりにもアメリカ的な見方」という意見には成る程と思ったものだ。アメリカはブット氏をパキスタンの鎹として起用しようとしたのだろう、シャリフを通じてではパキスタンを制御できない、ムシャラフの地位も支持力も低下していた。

もっとも私のパキスタン情報など、せいぜいが3ヶ月くらいの知識に基づくものでしかない。だから私は、ブット氏を支持あるいは好感視していたわけではない、たとえムードでいいとしてもだ。

とはいえブット氏帰国を狙った爆弾テロは卑劣にして悲惨なものだった。どう考えても容認することができない。彼女はテロの危険を、事前にムシャラフから警告されていながらも帰国を敢行した。彼女の主張は明快だった。「パキスタンに真の民主主義を」だ。ムシャラフも民主主義を否定してはいない、しかし彼女のそれとは違う。

ムシャラフ、ブット、シャリフは、政権争いだけではなく、混迷を極めるパキスタンの立て直しのために、虚虚実実の駆け引きを繰り広げていた。あるときは手を結び、あるときは相手を批判し。その政治的緊張は、ある意味で健全な政治風景であった。ムシャラフ氏が軍参謀という独裁的権力を振りかざし、緊急事態宣言を発令したり政治・司法の敵対者を軟禁・逮捕したりしている状態であることは承知していても、政治的への期待が生み出すダイナミズムは失われてはいない。

そんな政治風景を、12月28日のブット氏暗殺事件は一変させた。軍部の陰謀であろうと、タリバンあるいはアルカイーダ系のテロ組織であろうと微妙かつ絶妙な均衡と西側諸国の思惑は崩壊した。ブット氏の暗殺は、アメリカ主導によるテロ掃討作戦、あるいはイスラムへの干渉に対する、強烈な「NO」という意思表示だ。

その犠牲になったのがブット氏なのだろうか、パキスタンと米国の狭間において。どんな政治的野心がブット氏にあったろうとも、テロの危険を誰よりも察知していながらも政治活動、政治集会を辞めなかったブット氏の姿勢を、私は支持する。


さて、振り返って日本だ。日本にとって、パキスタンはどれほど重要な国と写っているだろう。呑気に給油が国際社会での義務だとのたまう政治家は、何を考えているのだろう。そんな緊張状態の中で、世界は2008年を迎えた。

昨年は安倍首相の「ボクおなかがいたいの辞任」や、小沢代表の「みんな言うこと聞かないんで、もう辞めます」もあった。その後の民主党の「天岩戸行動」にも心底失望したものだ、まるで学芸会を見ているようではなかったか。内閣改造も総選挙も、数合わせ保身と保守だけにしか見えない。

11.21のNEWSWEEK誌には「THE BELGIFICATION OF JAPAN」とする記事も掲載されていた。曰く、日本では日本のエリート層で、ほぼ全ての主要テーマについて政治的コンセンサスが出来上がっている主要政党の政策の違いが小さいほど、国民が政治に関心を持つ理由も小さくなる

福田・小沢の大連立構想については、海外のメディアは、たとえばA grand coalition for Japan was a very bad ideaなどと報じた。ドイツのそれとは違うと。自民党と民主党にどんな政策的差異があるのかと。それが国民が政党政治にうんざりしている原因のひとつであるのに、新たなムーブメントは大きくならない。

未だ底の見えないサブプライム問題、米国景気のリセッション、原油高、日本景気に対する見切りからくる日本株売り、中国、アジア諸国の更なる台頭と国際発言力の増大。円に左右される輸出企業の業績、島国根性を脱しきれない日本のスタンダード、エトセトラ・・・。

ブッシュは死に体、福田は「ひとごと政治」だ。村上龍の『半島を出よ』はフィクションだったが、日本が強大な経済力を失うと国際的地位も失うとの指摘は強烈だった。


年初めの日経平均株価もTOPIXも大幅な下落状態から始まったことは、それでも記憶しておかなくてはならない、年頭から暗澹たる気分だ、投資などしていないにも関わらずだ。悪夢の始まりかあるいは変革の途上か、はたまた。