2008年1月28日月曜日

木村剛:投資戦略の発想法




まったく、らしくもない(というよりブログ主旨にふさわしくないような気もする)のですが、これも読んでいたので取りあえず個人的メモということで。


木村氏については賛否両論ありましょうが、本書は非常にマジメな投資の本です。今まで紹介してきた本と、基本的なスタンスは同じです。投資はギャンブルではない、チャート分析やファンダメンタルズ分析などに必要以上に時間をかけるなと。





まず最初から辛辣です。自分の資産と負債を根拠とともに書き出せないようなら、そもそも投資をする資格はない。リストラや倒産などの最悪の事を考えて2年分の生活資金(安全な流動資産)をまず貯めろ、それさえ出来ないなら、投資なんてする資格がない。住宅を借金して買っている(=負債)くせに投資するのも愚の骨頂、先に借金を返せ。最大の投資は節約だ、などなど・・・。こういう実も蓋もない話題が最初は続くのですが、非常に最もなことです。要は金利、利回りを含め、お金に敏感になる必要があるということです。もちろん時間にも。


以上をクリアした上で、資産を国内株式と国債、外貨預金の三分割ポートフォリオで組めと説きます。株はインデックスファンドなどの投資信託よりは、20銘柄程度を自分で選ぶのが良いと。ここら当たりは、内藤忍氏の考え方と若干異なりますが、それはあくまでもテクニカルな問題でしかありません。


投資本を読むと「サルのポートフォリオ」がよく引き合いに出されますが、選ぶのが難しければ、再就職するとしたときに自分が入りたい会社の株を買え、その会社に再就職するリスクよりはその会社の株を買うリスクはずっと小さい、というの指摘にはハッとします。逆に考えれば、ストックオプションなど持てなくても、自分を高め、自分の会社の企業価値を高めることが最も重要な投資であると自ずと気付くというわけです。


住宅を資産と考えず、負債と考えるのは、ロバート・キヨサトなどとも同様。ここも異論は多かろうと思います。


資産を蓄える方向の議論が多く、キャッシュフローに関する記述が少ないのは内藤氏や勝間氏にも共通していましょうか。あと木村氏の本は投資哲学は学べますが実践となるとちょっと弱いところもあります。


いずれにしても、自分の資産は自分で守るということは、これからの時代、いくら強調してもしすぎることはないと思わせるに充分な本であります。それにしても、勝間、内藤、木村氏とも「おいしい話が転がっているわけがない」「ローリスクハイリターンなものなどない」ということをしきりに強調しますが、世の中騙されている人があまりにも多いのだなと・・・。


本書も、2008年版とかがあって、マイナーチェンジで効率的に印税をかせいでいるようですが、そういうことは考えないようにしましょう。

2008年1月27日日曜日

内藤忍:資産設計塾、実践編







投資に目覚めたわけでもありませんし、そのテの話題を本サイトで続けるつもりもありません。



しかし、昨今の世の中の変化のスピードは極めて早い。昨年のサブプライムローン問題に端を発した、米国の景気のリセッションの懸念、楽観的過ぎたデカップリング論、BRICs諸国の猛烈な発展、さらにはアフリカも目覚め始めた。パキスタンだってテロと内政不安が続いているが、実は人口も多く発展のポテンシャルは高い。相対的に日本の国際的な地位は著しく低下してきている。かくもグローバル化した社会は猛烈なスピードで動いています。


日本は年金制度は完全に崩壊し、借金(国債)は増えるばかり。それなのに、どの政党も明確な財政圧縮手段さえ示すことができない。国民には何が真の情報なのかさえ分からず、聞こえてくるのは負担増のみ。個人にとって最大の負債である住宅の価値は35~40年程度しかなく、とてもではないが資産になどならない。それに輪をかけての留まるところを知らない偽装連鎖・・・。世界的に見ても非常に豊かな国であるはずなのに、どこか閉塞感がある。


戦後日本が作り上げたシステムは完全に制度疲労しており、大きな変革か衰退しかないのではないかと思いはじめました。そして、もはや、自分の資産は自分で守る時代に、とっくに突入していたのだと感じているこの頃です。


そういう意味から、自分の資産を見直すためにボチボチ本を読んでいます。


巷間に多くの投資本が溢れる中で、本書は堅実な長期的投資を指南する良書です。投資の考え方や基本的な商品について丁寧に解説しています。チャートによる商品の売り買いのタイミングという話しは殆どなく、人生と資産のアロケーションの重要性が強調されています。


氏の投資哲学は投資が目的ではなく、人生の目標を実現させるための手段であると捉えていること。従って単なる「金儲け」ではなく、自分の目標に合った資産設計を行い、必要以上のリスクと(投資関連に費やす)時間を取り過ぎないことを強調しています。あくまでも最終目標は、自分のやりたいことを実現させるためにお金を増やすのだということ。投資は趣味や楽しみではないのだと。


「実践編」は、前作と被る部分がかなり多く、表の数値も殆ど同じでオリジナリティが少ない。前作が良書であっただけに、非常に残念です。これも投資の基本である「レバレッジ・著作術」とでも評すれば良いのでしょうか。


2007年発行ですが、昨今のめまぐるしく変る経済情勢を考えるとちょっと記述が古く感じる点もあります。どちらか1冊あれば充分だと思います。

大前研一:大前流 心理経済学




副題は「貯めるな使え!」と刺激的なキャッチ。要は1500兆円にもなる個人金融資産を眠らせることなく、有意義に消費、投資にまわして日本を活性化し、自分の人生をより良いものにしろというメッセージ。
もっとも「大前流」とあるように「心理経済学」という点の内容は残念ながら浅い。





ここでも日本人の多くが自分の資産さえ把握していない不思議(P.125)に警鐘を鳴らしています。把握していないのではなく、今まで把握する必要がなく、陰謀論的には把握させないように誘導されていたのかも知れませんが・・・。


氏のメッセージは強烈なのですが、一方で個人金融資産1500兆円というところに読者の生活実感がどこまで合致するか疑問です。


大前氏も高齢者から若い世代に資産を移す(P.159)と指摘しているように金融資産は高齢者に偏っています。本当にお金の必要な若年層は資産より負債の方が多いのが現実でしょう。そこで大前氏は、資産移動のために贈与税の改革と生前相続制度を挙げているのですが、現実味が少ない。というのも、資産はもはや年齢だけではなく、階層に偏在しているのが日本の現状なのではないかと感じるからです。


前提の1500兆円に関する詳細な分析がないだけに、資産ギャップを感じる人には、ほとんど空論と写ります。


それでも、多少雑ではあるものの、見逃すことのできない指摘も多い。たとえば「第6章 心理経済と集団IQ」。


シンガポールの生き残り戦略などを紹介しながら、日本の旧態依然とした地域利益重視型島国政治によって、国際社会から完全に取り残されつつある現状を活写しています。また最近話題になり始めた政府系ファンドについても言及しています。


かように海外はめまぐるしく変化しており、スピード感は驚くほどです。今の日本政治が完全な機能不全に陥っていることは日々接するニュースや仕事からも実感として感じることです。アメリカの大統領予備選の報道ぶりを見るに付け、日本の政治風景の不毛さを思い知ります。


日本がこのまま国際社会での地位を急激に落としていこうとも、多くの人たちは日本に住み続けなくてはなりません。その中で幸福を追求するには、「無知」と「怠惰」を戒め、自ら主体的な個として生きなくてはならないということなのでしょう。


正月からいくつかの投資関連本やら自己啓発本を読みましたが(梅田望夫の「ウェブ時代をゆく」も含め)、共通して感じたことは「お金の運用」の仕方ではありません。「投資」ということの持つ意味と、自分の人生に対する積極的関与の重要性です。私たちは、より良く生きるために「投資」を怠ってはいけないのだと。

勝間和代:お金は銀行に預けるな




本書の主旨は「金持ち父さん 貧乏父さん」(→レビュ)と重なる点が多い。それは投資方法論においてではなく、「金融リテラシー」を身につけて前向きに生きようという強いメッセージを発している点においてです。




今までは、お金の事をあからさまに話したり「お金にお金を生ませる」「不労所得を得る」ということは、金持ちのやることとか、さらには罪悪感さえ覚えるような雰囲気があったものです。


しかしグローバル経済の影響を嫌でも受けるようになった現在、お金に無頓着であることは自分の人生の一部を放棄しているに等しいことです。日本人の教育の中で、自分の人生に対する「資産設計」という考え方が著しく欠如しています。


「金持ち父さん~」でも書かれていましたが、「とりあえず、良い大学に行って、良い会社に入って」が人生設計を確実にするものと、ついこの間まで信じられていました。それだけが選択肢ではないことを、私たちはバブルの前後で嫌というほど見せつけられ、今もその延長の中に居ます。


学校では金融知識や資産設計を教えてはくれません。お金に無頓着であった人には良いきっかけを与えてくれる書です。金融知識をしっかり身に付け、自分のスタンスと人生設計をすることは今からであっても遅くはないことを教えてくれます。


もっとも一通りの金融知識を身につけた人にとっては目新しいことは何も書かれていません。また投資で一発大もうけをしたい、という人のための本でもありません。分散投資、アセットアロケーションを中心とした長期運用で資産を増やすという人のためのものです。


そういう意味では良書ですが、さらに(More)を求めたい人には異論もある内容かもしれません。

小川洋子:ブラフマンの埋葬




サンスクリット語で「謎」を意味する「ブラフマン」と名づけられた小動物と、<創作者の家>という施設の管理人をつとめる主人公との物語。タイトルにあるように、最後には「ブラフマン」に死が訪れることを読者はいやが上にも最初から知らされています。それゆえに「ブラフマン」の温もりが痛いほどに伝わってきます。


物語の軸は、確かに「僕」と「ブラフマン」の純粋な愛情です。しかし単なる動物との交流物語に陥ってはいないところが、小川洋子氏の小説世界。






物語を支配するのは静謐さ。その静謐さの下には、美しさと醜さ、人生に対する不気味と諦め、愛と性、生と死さえも横たわっているかのようです。それらは泉の底の沈殿物のように普段は表面に現れてこない。


ふとした拍子に、泉の表面にさざなみが現れて、下にあったものが露呈することがあったとしても、しばらくすると、全ては押し流され再び静寂と静謐だけが支配する、時間だけは無情に淡々と流れ・・・。


深い悲しみも、絶望も、欲望も、葛藤も、およそ小説のテーマとなるような物語や感情は何ひとつ提示されてはいません。登場人物の描写もひどくそっけない。このような確信的とさえ思えるような描き方をすることで、淡々とした人々の営みと命の物語は、逆に深く心を捉え、蝋燭の仄か光のように心を暖めてくれます。そして、小説を読む愉悦を思い出させてくれます。

2008年1月15日火曜日

歌舞伎座:新春大歌舞伎


先日、歌舞伎座の夜の部を観てきました。演目は「鶴寿千歳」「連獅子」「助六由縁江戸桜」。私は歌舞伎を観始めてそれ程たっていませんので、所謂歌舞伎十八番の中でも有名な「助六」を観るのは今回が初めて。成田屋演ずる助六であれば観ずばなるまいと楽しみにして参った次第です。



「助六」の主な配役は、助六の團十郎、白酒売新兵衛の梅玉、揚巻の福助、髭の意休が左團次、そして曽我満江が芝翫であります。これだけでも何たる豪華な顔ぶれでありましょうか。


幕は團十郎が市川家のお家芸として重要な演目であることを口釈してから始まります。浄瑠璃は河東節十寸見会御連中、河東節は江戸浄瑠璃で二代目団十郎が助六を演じた時から使われているのですとか。


芝居のまず最初は、ご存知の通り意休と揚巻のやり取りが山場です。例の揚巻の悪態の部分、すなわち


意休さんと助六さんを並べて見るときは、こちらは立派な男振り。こちらは意地の悪そうな顔つき。たとえていわば「雪」と「墨」、硯の海も鳴戸の海も、海という字は一つでも、深いと浅いは客と間夫、間夫がなければ女郎は暗闇、暗がりで見てもお前と助六さんを取りちがえてよいものかいナァ


の部分。いやァ、気持ちが良い。客席もやはり喝采です。福助の揚巻は威勢がいいだけではなく、間夫である助六への気持ちが真に痛いほどに伝わってくる、なるほどに見事。


助六が登場するのは、随分と後になってからです。いわゆる助六の出は、笠をさした助六が花道で延々と踊ります。安い席で観ているので全く花道が見えず、これでは欲求不満になります、残念。


以前も書いたことがありますが、だいたいに、私は團十郎の芝居が好きです。彼のおおらかさ、ほがらかさ、大きさ、そしてユーモアを、彼が舞台に現れるだけで感じ取ることができます。彼が喋るだけで幸せな気分になります。今回は意休にわざとケンカをふっかける、その悪さ憎らしさ振りがハマっています。台詞回しは若干聞き取りにくいところがあるのですが、とにかくに楽しい。それを受ける、白酒売の梅玉も抜群、これぞ和事味というのでしょうか。


左團次の意休は、いまひとつ固いイメージの役づくりになっていましたが、これはどうなんでしょう。というか立派なんですよ、揚巻に言い寄るイヤな奴という雰囲気ではない。ラストでは助六を打ち据え意見までする。ゴロツキを敢えて演じる助六よりも数段格が上なんですよね。勉強不足ですが、こういう役柄なんでしょうか意休というのは。


満江の芝翫というのには驚きました(配役確認してなかったので)。こういう役は芝翫はうまいなあと、少しの出なのにしっかり親の情が出る。


という具合に2時間ちかくにも及ぶ古典劇ですが、正月らしい煌びやかな舞台であり楽しめるものでした。原作だけでしっかり面白いのですから、最近のお笑いの芸を取り入れて観客に媚を売る必要まではないと思うのですが、いかがでしょう。


「鶴寿千歳」は筝曲の舞踏です。筝が入るとお正月気分が沸き立ちます、音色を聴くだけで至福の気分。これも後半は芝翫と富十郎が踊るのですが、いやはやです。足元が危なくはないかとハラハラするのですが、そこはそれ、厳かに舞っています。踊りに衰えもあろうかとは思いますが、ヒシヒシとした緊張感を感じてしまいました。いったいに何時まで彼らの舞台を見られるものでしょう。


幸四郎と染五郎の「連獅子」は、2005年11月の吉例顔見世大歌舞伎以来。感想はあの時と変らないのでバスします。ただ、二度目ともなると、以前よりはよく舞踏の意味がわかってきましたので、その点、以前よりも充分に楽しめました。




2008年1月12日土曜日

'Rich Dad Poor Dad' と'Who Moved My Cheese?'

世に自己啓発本というのがあります。30代の頃は自己啓発本とかビジネス本を軽蔑とまではいかなくても軽んじていました。何を今さら他人に教えてもらうのだと、自分に自信を持っていたのでしょうか。ずいぶんと傲慢にして不遜、無知な考え方です。ですから、ベストセラーとなった、例えば「金持ち父さん貧乏父さん」とか「チーズはどこへ消えた?」みたいな本の存在そのものを長らく無視しておりました。


しかし、40歳を半ば近くなってきたころから、ようやく自分がそれほど優れていないこと、むしろ他人に対して著しく劣る部分が極めて多いことを思い知るようになり、その手の本を読むようになりました。まあ謙虚になってきたというのでしょうか。しかし、とは言っても、今さら、あれ程のベストセラーを手に取るのも恥ずかしい。


そういう見栄もあって、今年の冬休みは特に予定もなかったのでペーパーバック版で読んでることとしました。意外に日本翻訳本よりも安かったことも理由です。冬休み暇だし、ついでに英語読解力の向上も目指そうかなと。


もっとも、私の英語レベルといえば中学生のそれを超えないものです。基本的な単語力もないし記憶力も減退しまくっていて、本当に酷いものです。ですから、ちょっと苦労はしましたが、内容的には得るところはあったかなと。




Rich Dad Poor Dad by Robert T. Kiyosaki


Robert T. Kiyosakiのあまりにも有名な、投資に関する本ですね。私はそのタイトルから、もっと軽い内容なのかと思っていましたが、日本の数多の投資ビギナーに対する本よりも余程説得力がありました。文章は平易ですし、繰り返しがやたら多く、その点、Kiyosaki氏の論調が鼻に付いたり、飽きたりしてくるのですが、彼の主張はぶれません。


「お金のために働くのではなく、お金に働いてもらう」「お金にお金を稼いでもらう」という投資的発想は、例えば森永卓郎氏のように「本来はお金は働いて稼ぐもの」(年収崩壊―格差時代に生き残るための「お金サバイバル術」 )と考える従来型の人には、違和感と受け入れがたさを感じる部分でしょう。また、Kiyosaki氏の労働観も働くことを通じて自己実現を図るという考えを持つ人からは反発されやすい部分でしょう。まず説明される節税に関する説明も、なんだかなあと思ってしまいます。


「勉強していい大学に入って、いい会社に入って、老後は年金生活・・・」という生き方(すなわちPoor Dadの生き方)は、アメリカでも広く支持されていた生き方。それを真っ向から否定しているのが本書なんです。本書に否定的意見が出るのも頷けます。


それではあっても、彼の主張は説得力があるのですね。それは彼が人生に対して前向きで、リスクを恐れず、そして自分に最大限の投資をすることでリターンを得ているという強さがあるからです。まず真っ先に自分に投資しろ、というのは、お金に限らず全てに当てはまると思った次第。
Beginnings/Chapter Eight Overcoming Obstaclesという章では、投資を始める上での障害として以下の五つをあげています。



  1. Fear.
  2. Cynicism.
  3. Laziness.
  4. Bad habits.
  5. Arrogance.


あまりにも的確。それは財産の投資ではなく、人生に対する投資についてさえ言い当てています。




Who Moved My Cheese? by Dr Spencher Johanson


これまた、一時書店に山積みになっていましたよね。初版であったとしても、以前の私なら手にも取らなかったろうなと。しかし読んでみると、OVER 12 MILLION COPIES SOLD WORLDWIDEだけのことはあり示唆は多い。


アメリカ大統領予備選における今年の流行語ではありませんが「Change」がテーマ。変化にどう備えるか。変化を嗅ぎ取り、対処する。


これは、先の「Poor Dad Rich Dad」で書かれていた、リスクをコントロールするということ、あるいは、梅田望夫の主張する「けものみち」を行く(「ウェブ時代をゆく」)ということにも通じるように思えます。自己の責任において変化やリスクに積極的に対処する時代に、本格的に突入していることを、年末年始の読書は痛切に感じさせてくれました。


本書で一番痛かったのは、失われたチーズを探す本論ではなく、最初の章の下記の部分かな。


"When one of our senior executives, who was having difficulty adapting, said the story('Whe Moved My Cheese?) was a waste of time, other people kidded him saying they new which character he was in the story -- meaning the one who learned nothing new and did not change"


ウヘッ!! オレのことぢゃないか、ってね。




英語の方ですが、「Rich Dad Poor Dad」は、最初こそ慣れないのでちょっと戸惑いましたが、50頁も読むと(辞書は必要ですが)何とか読めるようになります。どうしても分からない部分は、何度か書店に行って確認しましたが(笑)。「Who Moved My Cheese?」は、前者よりははるかにやさしく、前書きにあるように、すぐに読めます。


さて、2冊を読み通すことで、私の英語力は向上したか? ネットサーフィンしてみる・・・、CDのブックレットを捲ってみる・・・!!!? 依然として、以前と同じく、全く歯が立たない・・・、前途は多難、今は新たに別の2冊に挑戦中なり。

小川洋子:博士の愛した数式




映画にもなって、小川洋子氏の名前を広く世に知らしめた代表作です。多くの人が彼女の独自の世界観に、そして作品内容の誠実さと愛おしさに感動したことと思います。


しかし、私にとっては、この作品はそれ程面白いものではありませんでした。





決して作品をけなすつもりはありませんよ、小川氏の小説家としての才能、そして彼女が小説に求めている核はここでも健在です。それを私なりに解釈すると、例えば彼女の短編にあった、ある「生」あるいは「命」を別の者がしっかり受け止めるとでもいうような、切なくなるような受け渡しと、そこに潜むやさしい喪失の物語でしょうか。


しかし、「薬指の標本」のような作品に認められた、背徳的なエロスとかタナトス、不気味さ、じわじわとした恐怖のようなものは、「博士の~」からは全く剥ぎ取られてしまいました。


今までに読んだ短編(ごく少ないです)の、ネット上レビュを読むと「何を書いているのか分からない」という感想がチラホラ目につきます。確かにラストを放り投げたようなものや、未完に感じられるものもあります。私にとっては、そういう「異色さ」が小川氏を他の作家との隔てているものであり、そこに魅力を感じていたのですが、小川氏は「異色さ」を主として作品を書いてはいないものの。


彼女の作品は翻訳もされ海外でも評価されているようです。村上春樹と同様の無国籍性と無臭性を感じる部分です。小川氏の作品のどこが評価されているのか詳しく調べたことはありません。それでも、国内においては「博士の愛した~」が最も彼女の名を広く知らしめた作品だというのは間違っていないでしょう。「異色さ」を剥ぎ取っても、一層に万人受けしたのですから、やはり確かな才能なのだと思います。


記憶を80分しか維持することのできない数学者という突飛な人物が主人公、その存在そのものが「異色」といえば異色です。数学はつけたしではなく、それも数論という分野の持つ特殊さと純粋さを作品は見事に吸収し消化してます。


しかし、そうであっても残念ながら、私にとって本作が小川氏の作品の初読であったならば、他の作品を続けて読もうという気にはならなかったかもしれません、ひねくれていますかね。

2008年1月7日月曜日

年頭に当たってのメモ


Clala-Noteというカテゴリーがあったのを、すっかり忘れていた。とりあえず年頭に当たってのメモである。ごくごく、個人的なメモということで。

アメリカの大統領選を占う1月4日のアイオワ州党員集会では、民主党についてはオバマ上院議員が、ヒラリー氏などを抑えて圧勝した。「変化」を求める主張が、若者を中心に地すべり的な支持を得たとの解説が目に付く。アイオワの結果だけで全てを占うことはできないものの、今後の行方は興味深い。

それにしても「変化」か! 数年前の小泉政権を生んだときの熱気を、懐かしく思い出す。今の日本の政治風景は、あまりにもあの時と違っている。「劇場型政治」がやっと終わったと胸を撫で下ろす良識派が居ることは知っている。私も小泉政権には幻滅したクチだ。それにしても、日本政治のダメさ加減よ。

年末のパキスタンのブット首相暗殺には、遂にという想いとともに、残念な気持ちでいっぱいである。パキスタンは昨年9月から、テロ特措法からみで内外の新聞をウォッチしてきた。今年の総選挙を睨んで9月10日にシャリフ元首相が帰国を企てたものの、パキスタンの地を踏むことさえできず、空港から国外追放された頃からだ。10月18日、熱狂と爆薬に迎えられブット氏は帰国した。二人の帰国に対する戦略の違いは、海外のメディアで話題となった。西側受けするブット氏はBBSを始めとするメディアで強くパキスタンの将来について語っていた。

ムシャラフ氏が99年に権力を握ったときのパキスタンは政治的に孤立し、経済も破綻状態だった。穏健で近代的な国家建設に向けて方向転換をしたのは確かにムシャラフだったらしい。だから、NEWSWEEK 11.21(日本版)の「PAKISTAN'S PINSTRIPE REVOLUTION」という記事が指摘した、「ムシャラフVSブットという構図は、あまりにもアメリカ的な見方」という意見には成る程と思ったものだ。アメリカはブット氏をパキスタンの鎹として起用しようとしたのだろう、シャリフを通じてではパキスタンを制御できない、ムシャラフの地位も支持力も低下していた。

もっとも私のパキスタン情報など、せいぜいが3ヶ月くらいの知識に基づくものでしかない。だから私は、ブット氏を支持あるいは好感視していたわけではない、たとえムードでいいとしてもだ。

とはいえブット氏帰国を狙った爆弾テロは卑劣にして悲惨なものだった。どう考えても容認することができない。彼女はテロの危険を、事前にムシャラフから警告されていながらも帰国を敢行した。彼女の主張は明快だった。「パキスタンに真の民主主義を」だ。ムシャラフも民主主義を否定してはいない、しかし彼女のそれとは違う。

ムシャラフ、ブット、シャリフは、政権争いだけではなく、混迷を極めるパキスタンの立て直しのために、虚虚実実の駆け引きを繰り広げていた。あるときは手を結び、あるときは相手を批判し。その政治的緊張は、ある意味で健全な政治風景であった。ムシャラフ氏が軍参謀という独裁的権力を振りかざし、緊急事態宣言を発令したり政治・司法の敵対者を軟禁・逮捕したりしている状態であることは承知していても、政治的への期待が生み出すダイナミズムは失われてはいない。

そんな政治風景を、12月28日のブット氏暗殺事件は一変させた。軍部の陰謀であろうと、タリバンあるいはアルカイーダ系のテロ組織であろうと微妙かつ絶妙な均衡と西側諸国の思惑は崩壊した。ブット氏の暗殺は、アメリカ主導によるテロ掃討作戦、あるいはイスラムへの干渉に対する、強烈な「NO」という意思表示だ。

その犠牲になったのがブット氏なのだろうか、パキスタンと米国の狭間において。どんな政治的野心がブット氏にあったろうとも、テロの危険を誰よりも察知していながらも政治活動、政治集会を辞めなかったブット氏の姿勢を、私は支持する。


さて、振り返って日本だ。日本にとって、パキスタンはどれほど重要な国と写っているだろう。呑気に給油が国際社会での義務だとのたまう政治家は、何を考えているのだろう。そんな緊張状態の中で、世界は2008年を迎えた。

昨年は安倍首相の「ボクおなかがいたいの辞任」や、小沢代表の「みんな言うこと聞かないんで、もう辞めます」もあった。その後の民主党の「天岩戸行動」にも心底失望したものだ、まるで学芸会を見ているようではなかったか。内閣改造も総選挙も、数合わせ保身と保守だけにしか見えない。

11.21のNEWSWEEK誌には「THE BELGIFICATION OF JAPAN」とする記事も掲載されていた。曰く、日本では日本のエリート層で、ほぼ全ての主要テーマについて政治的コンセンサスが出来上がっている主要政党の政策の違いが小さいほど、国民が政治に関心を持つ理由も小さくなる

福田・小沢の大連立構想については、海外のメディアは、たとえばA grand coalition for Japan was a very bad ideaなどと報じた。ドイツのそれとは違うと。自民党と民主党にどんな政策的差異があるのかと。それが国民が政党政治にうんざりしている原因のひとつであるのに、新たなムーブメントは大きくならない。

未だ底の見えないサブプライム問題、米国景気のリセッション、原油高、日本景気に対する見切りからくる日本株売り、中国、アジア諸国の更なる台頭と国際発言力の増大。円に左右される輸出企業の業績、島国根性を脱しきれない日本のスタンダード、エトセトラ・・・。

ブッシュは死に体、福田は「ひとごと政治」だ。村上龍の『半島を出よ』はフィクションだったが、日本が強大な経済力を失うと国際的地位も失うとの指摘は強烈だった。


年初めの日経平均株価もTOPIXも大幅な下落状態から始まったことは、それでも記憶しておかなくてはならない、年頭から暗澹たる気分だ、投資などしていないにも関わらずだ。悪夢の始まりかあるいは変革の途上か、はたまた。