2009年3月30日月曜日

下村治:日本は悪くない 悪いのはアメリカだ

神谷氏が自ウェブや『強欲資本主義・ウォール街の自爆』(→レビュ)で紹介していた下村治氏の著書が復刊されておりましたので読んでみました。初版は1987年です。サブプライム危機後の現在にもそのまま当てはまる予言と批判となっており、書評やネット上では下村氏の慧眼を評価する声を一部で見ることができます。

しかし、よく考えると経済というか日本が、バブル時期の20年前と何も変わっていないこと、あるいは、新自由主義が崩壊した世界においても、相変わらずの対米追従であり、自国の論理を構築できないままの未熟国であることが露呈されたたに過ぎないのかもしれません。ドルの崩落の危険性について下村氏も指摘していますが、今でも同じ論調の本はあちこちに山積です。

下村氏は全8章で同じ理論を繰り返しています。下村氏は、とにかく「アメリカの言いがかりと詭弁」に怒っています。高名な経済学者でありながら語り口も平易ですから、読み物としてもあっという間に読めますし、イロイロな意味で深い感銘を受けます。

骨子はこうです。アメリカ国見一丸となって借金をしてまでの消費狂いのせいで双子の赤字が生じている、それを他国(=日本)のせいにして日本国内消費を増やせだの、輸出を減らせだの文句を言うことはオカシイ。キサマラこそ借金を止めて消費を縮小せよ。日本は輸出が減るから生産は減るけど、他国の消費に頼ってバブルを謳歌していることこそ間違い。生産を縮小して身の丈にあった経済に戻りなさい、というもの。

下村氏は、多国籍企業やグローバル経済にも異を唱えているようです。自由貿易やグローバル企業は進出先の産業を弱体化させ食い物にするというような植民地時代の考え方が今でも生きていると主張します。競争力の弱い自国の産業は保護が必要であると。

20年経った今でも、アメリカの消費はいよいよもって狂気の域に達し破裂しました。今回の経済不調の原因が市場主義にあったわけでもない。確かにサブプライム・ローンとかCDSなどの金融派生商品を生み出した金融業者と、それに信用を付与し続けた格付機関には大きな責任があります。そして、そんなワケの分からない商品を買いまくった銀行とか保険会社にも責任の一端はあります。

サブプライムで痛い思いをした日本経済は、「新自由主義」とか「市場主義」の悪弊を言い募り「資本主義」のパラダイムが変換しつつあると主張し、「縮小均衡」や「保護主義」に向かうべきという主張が目に付きます。20年前の下村氏も同じことを主張します。アメリカが本気で経済を立て直す(赤字を解消する)気なら、GNP縮小を覚悟の上で「歳出削減」と「増税」しか道はない、日本も多少の痛みを覚悟の上で(数年前のレベルに戻るだけのことと氏は言う)縮小均衡に向かえと。

自国を見直し、大切なものは育てるという認識は正しいと思います。ただし、ここまでグローバル化した世界において、グローバル化そのものの流れを止めることはもはやできません。保護主義(バイアメリカン条項などもそうでしょうか)も一時的には効果があるかもしれませんが長期的戦略ではない。そんなことをしていたら、更に経済は硬直化し新陳代謝をすることなく縮小してしまう。経済が一時的にオカシクなったものですから、「内向き」こそが是、「節約こそが是」という風潮も、ゆり戻しの範囲であれば受け入れるべき点はありましょう。

怒りまくっている氏の最後の結びは以下のような文言です。

(現在の異常な経済運営を改めるなかで)ただし、その際、忘れてならない基本的問題は、日本の一億二千万人の生活をどうするか、よりよい就業の機会を与えるにはどうすべきか、という点なのである。

これは自由貿易よりも完全雇用、経済活動はその国の国民が生きていくためにある、という氏の一貫した理念は明確で力を与えてくれます。

2009年3月21日土曜日

津村記久子:ポトスライムの舟?第140回芥川賞受賞作

友人と話していると、私は世間に対する認識がひどく甘いらしく、特に派遣とか非正規雇用とか、または最低年収に対する常識が現実とズレていると厳しく批判されます。森永卓郎が「年収300万円で生きる」みたいな本を書きましたが、今や年収300万円ももらえればいい方なのであると。そう言われてしまう私は、弱者に対する思いやりや視点が欠けているのだろうとなと思わざるを得ません。彼ら彼女らの生き方や痛みも分からないのだろうなと。

だから、本書を読んだ第一印象も、この小説に描かれるような生活とか境遇の人に対してのシンパシーが生まれてこない。何なのこの小説、ごく狭い世界の個人的なことが、ダラダラと綴られている、大人になりきれないオトナたちの生活が描かれているだけで、一言で言えば「退屈」。これが最近の芥川賞の内実?などと思ってしまう。大して小説なんて読んだことがないくせに、偉そうにです。

でも、読み終えて読み捨てたハズの作品ではあったのに、ずっとアタマの片隅に何かが残り続けている。あたかもポトスの根が、水鉢の中でグルグルと根を張るかのように、何かがひっかかる。そんなに無視していい作品なのかと、自分の欠落に目を閉じていていいのかと。いや、やはり「芥川賞」ということに、何がしかの「意味」を見出そうとしていたのかもしれません。

さして長い作品ではありませんから、再読してみました。すると、主人公ナガセが何をもがいていたのか、やっと見えてきました。

ナガセは年収の低さとか、派遣という立場とか、30歳になっても独身であることとか、そういう分かりやすい不安定さだけが問題なのではない。以前の職場ではパワハラと気違いじみたパワーゲームに傷ついた。そもそもが、働くとか生きるということに対する意味が希薄になっていること、ムリにでも自由な時間を潰し何かしていなくては不安で仕方がないという精神状態こそがモンダイなのです。

自分の時間や人生を切り売りしているその代償として、働く動機や確実な成果が欲しい。働くためのモチベーションを得るために『今がいちばんの働き盛り』と腕に刺青を彫ろうとします。あまりにリスキーな行動ですから思いとどまり、次に年収全部をためて世界一周クルージングをするということを目標にします。たまたま目に留まった職場のポスターで思いついた程度のものであったとしても、とにかくすがらなくてはならない。自分に対する報償、ささやかだけど大切な失地回復運動。

ナガセは小説後半でヒドイ風邪で職場を休むことになります。そして、彼女の中で何かが変化していきます。休んでいる間にたまたま会社がボーナスをくれて、はからずも世界一周のお金が溜まっということもありましょう。休んだら、自分が根本から変ってしまうのではないかとまで思いつめ、それでもそこまでして維持して、それからどうなるんやろうなあ。わたしなんかが、生活を維持して。と考えていた彼女。病気で床に伏したことが、彼女の周りは何も変化していないのに、彼女には何がしかの意味を付与したことは、前半と後半の小説風景をがらりと一変させるほどのものがあります。

私は小説のラストに向けてさらにナガセに不幸や挫折が訪れやしないかと不安だったのですが、作者はそんな意地の悪いことはしませんでした。誰もが「小説」や「映画」の主人公のように強くはありませんからね。葛藤に対する克服とかも用意しません。村上龍氏の選評であるコントロールできそうにないものを何とかコントロールしようという意志でもありません。そんなテーマからは遠い地平に作者(たち)はいる、そういう「マッチョ性」から最も遠いことを描いているのですから。作者はもっと現実的なものを提示したのです。

それとて、本当にささやかなもので、大きなドラマでも事件でも何でもありません、解決でさえありません。しかし日常のそういうものをいとおしく思う気持ちがなければ、このつまらない人生(=作品世界)などに本当に意味などないのかもしれないと思ったことも確か。これはハケンとかだけの物語ではなく、働くとか生きる人全てに対する、ごくごく控え目なメッセージなんですね。


ととらえました。浅いかな・・・、まあ・・・文春もそろそろ「芥川賞」なんて止めたらとは思いますけどね。

2009年3月15日日曜日

ハイティンクの無料音源を堪能

CLASSICAの飯尾さんによる「ネットエイジのクラシックジャンキー」で、『巨匠ハイティンクのライブ音源無料ダウンロードサービス!』という記事が目に留まりました。

ダウンロードが3月15日までとのことなので、せっかくですからダウンロードしてみました。演奏はロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団で、以下の3曲です。

  • ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」 (2005年)
  • シューマン:交響曲第1番「春」 (1981年)
  • ビゼー:交響曲ハ長調 (2000年)

音源は楽章ごとに分かれたmp3形式。前回の配布では全楽章が1音源でしたから使い勝手はこちらの方が良いかと思ったところ、楽章の最初と最後にオランダの公共放送局radio4のアナウンスが挿入されている曲が幾つかありました。

多少興ざめではあるものの、これほどの音源をサービス期間中とはいえ無料でダウンロードできることはありがたいことです。往年の響きが失われているとお嘆きの方もいらっしゃいますが、ロイヤル・コンセルトヘボウの柔らかな音色も素晴らしく、全曲とも堪能することができました。

シューマンやビゼーの交響曲は普段あまり食指を伸ばさない、またハイティンクでさえ私にとっては積極的に親しもうと思う指揮者ではありません。しかし「無料」ということもあって、こうして聴いてみますと、どれもじっくりと聴くべき価値はしっかりあり、特にハイティンクに関しては一度まとめて聴いておくべき指揮者なのだろうなと改めて思ったりしました。

2009年3月13日金曜日

哲学博士 宮下誠氏のブログ

『カラヤンがクラシックを殺した』の著者である哲学博士 宮下誠氏のブログがあります。3月11日のエントリ「音楽はただ聴くためにあるのか?」で同書と同じような論旨を展開していました。気になるテーマですのでメモしておきます。

あの、即物に徹した、にも関わらず様々な内包物を潤沢に孕んだ音楽に対して「聴くだけ」なる姿勢は許されるべくもありません。

音楽は感覚の悦びであると同時に認識の歓喜だ、

この「認識」を宮下氏は「悟性」という言葉に置き換え、単なる「感性」だけの音楽を鋭く批判します。「悟性」とは普通はあまり使わない言葉です。「認識」とか「知性」「理解力」と解されることが多く、英語では「understanding」となるようです。私も高校の教科書で接して以来、日常的に使用した記憶のない単語です。哲学者である宮下氏が使うのですから、カントやヘーゲルの悟性論までを理解しないと、彼の「嘆き」には共感できないのかもしれません。

感動!!!

そういえば全てが許される、この世界の風潮は、一億総愚民化の一支流に他なりませんん。

安っぽい「感動」の氾濫には私も辟易です。一方でたまには理屈もなく呆けたように「感動」したいことも確か。

神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。

こう書いたのは『西洋音楽史』の著者 岡田暁生氏(→Clala-Flalaエントリ)。「悟性」の欠落は神なき現代の、更なる精神的な不毛に帰すべき現象なのでしょうか・・・?? 素直に「感動する」ことを批判する姿勢には、反論も多いと思います。私の中では無視はできないものの結論付いてていない問題です。そんなこと考えずに、ただ音楽に浸ったほうがよかろうとは思うんですけどね。

2009年3月10日火曜日

歌舞伎座の建て替えについて、中野翠さんの意見

「文藝春秋」2月号に、エッセイストの中野翠氏が『歌舞伎座取り壊し 私は許せない』とする文章を寄稿していました。彼女は六代目歌右衛門を通じて歌舞伎に親しんできたというほどの方。

彼女は、単なるノスタルジーや建築意匠的なもののみに反対の理由を求めるのではなく、歌舞伎を演ずるということの重層的な楽しみというこから説明しようとしています。

すなわち、歌舞伎というものは、代々と受け継がれた演目を、世襲で継承している役者が演ずるという歌舞伎の構造的な本質と、それを「同じ場所(舞台)」で演ずるということ。
それが歌舞伎を長く見続けたときの重層的楽しみなのであると書いています。この「重層性」こそが、由緒ある劇場には必ずある心をしんとさせるような妖気やオーラにつながるのだと。

今の舞台に昔の舞台の「記憶」が重なる

このような意見を読むと、歌舞伎を始めて見る人や、全く見ない人には、何のことやらでしょうか。一部の特権的観客の愉悦に過ぎないのではないかと、冷淡な態度をとる人も居る事でしょう。しかし、そのような「重層的な記憶」こそが伝統とか伝説につながり、それが極まれば、ファンからは「聖地」と崇められるという現実もある。

一方で女性らしい、下記のようなコメントには思わずニヤリとしてしまいます。

(国立劇場では)女を引き付つける俗っぽい華やぎや色気に乏しい。伝統芸能を楽しむのではなく鑑賞するという感じ。

まさに!です。1階のお土産屋あたりから漂う、甘い金つばやたい焼きの匂いや、俳優の生写真などなど・・・。

このような下らない価値観こそが「文化」という目には見えないものの、とても大切な一部のような気がするのです。それゆえに、気配に敏感な方々は単なる更新や再生ではなく「破壊」とうつる。いったん破壊されたものは、絶対に再構築されないことを分かっていますから。

例えば、今話題の東京中央郵便局の建替え問題。こちらも部分保存の範囲を拡大する方向で決着が付くそうです。こちらの建替えは、なにやら政治的なにおいがして賛同できない部分も多い。単なる形骸化した建物と、歌舞伎座を一緒には論じられないと思いますが、いかがでしょうか。