2010年3月27日土曜日

香山リカ:なぜ日本人は劣化したのか

日本人が劣化したのは「なぜか」と題していながら、それに対する答えとして、「市場主義」に原因を求めている点は、ベストセラーとなった『国家の品格』(2005年)と同じ論旨であり追求の仕方としては一面的でしかない。本書が書かれたのが2007年4月であり、彼女の認識に古さを感じる。すなわち、時代を貫く論理にはなりえていないということだ。

「劣化」とひとくくりにしても、香山氏も指摘するように、学力、体力、(生きる)気力、マナー、「日本人らしさ」など、多岐にわたる。筆者は、それをバラバラに捕らえるのでは、間違った対処療法的な解決策しか出てこない、これらの病根は同じなのだからそれを認めて処方を論じよと解いている。その前提意見に同意することはできない。なぜなら、それはかえって問題を曖昧模糊なものとし、思考停止に陥る危険性を感じるからだ。全てに効く万能薬などない。

日本人が(この言葉に問題はあろうが)エリートから下流まで、程度の差こそあれ「劣化」していることは、何も香山氏に指摘されなくても日々目にするところである。政治の劣化は目を覆うばかり、だから「政治が悪い」では解決にも何もならない。

そもそも、本書のような内容でも「本」として発売されうるということ。そのこと自体が出版界と知的階層の劣化を象徴し、劣化を助長している。そのような本であることを分かっていて読む小生も「劣化」している。賢明な著者は、そのことに気づいていながら、あえて、このような愚書を出さざるを得ないほどに、書き手は焦燥感を覚えているのだと解釈しておきたい。

2010年3月13日土曜日

FREE

読んで損はない、話題の本である。どうしてGoogleの各種サービスや「無料アプリ」が商売として成立しているのか、分からない人にはタメになるだろう。

「フリー」すなわち「タダ」のサービスは昔からある。しかし誰かがコストを負担していた。そのコストが限りなく、無視できるくらいにゼロに近づいた時、あるいはそのコストを全く気荷しなくて良くなったとき、大きなブレイクが生じる。それは「何で稼ぐか」というビジネスモデルを破壊してしまうこともあるからだ。

この流れは止まらない。音楽や出版業界がよく遡上に上る。旧来型のモデルにしがみつく業界は早晩に市場から撤退してゆくか、ニッチな産業となっていくとの指摘も、ある意味で正しいのだろう。

結局は、「何で稼ぐのか」というビジネスモデルの本質を問う作業であり、何をフリーにすればよいのか、ネットをどう使えばよいのかという話ではない。何(コンテンツ)をどうやって売るのか(=稼ぐのか)を明確にしなければ、いくら評判を得てもそこから利益は得られない。

我々は簡単にコピーできるものに、お金を払う気持ちが沸かなくなってきている。いくら知的所有権云々と言われてもだ。では、「顧客は何になら御金を払う気になるのか」あるいは「どうやったら御金を払わせることができるのか」を考えろということだ。アトムだろうがビットだろうが、結局は変わらない。

音楽や出版会、あるいはパソコンのソフト販売は企画から製作、流通、販売というモデルでは稼げなくなっただけのことだ。ブツに対する需要はなくならないが、ブツの販売経路では稼げない。中抜けになって「不要となった産業に働く人たち」は、どこで「稼ぐ」のか。考えなければ業界突然死に見舞われて路頭に迷うのか。ビジネスにおいて「ネットの普及が世界をフラットにした」「中間管理職が不要となる」ということと通ずる世界であると感じた。

しかしながら、上記の世界観は正しいとしても、フリーにできるものとできないものは存在する。フリーにはならない、リアルで重量を伴ったブツを提供する世界は、どこになるのだろうか、という視点は、当たり前だがこの本からは得られない。

2010年3月12日金曜日

佐々木 譲 :警官の血

三代にわたる警官に関する物語で、読み応えのある小説である。佐々木氏の小説は、実は読むのが初めてであるこを前提に書かせてもらうが、本作に関していえば描写が非常に丁寧であり、ディテールに味ともいうべきリアリティがある。特に戦後の谷中や学生運動さなかの時代風景の描写は格別である。だからといってくどいというわけではない。一方で、描かれる人物は淡白な描写だ。主人公たちの人生に対する目的や受容の仕方も、ある意味で悩みもなく芯が一本通っている。読んでいて清冽な印象を受ける。

彼があえて「血」というものを題名に持ってきた理由は明白である。代々受け継いだ「血」は、警官になることを通して描く自分の周りの小さな人生であり、祖父や父が背負った人生を精算しながら自らも受け継ぎ濃くしてゆくという、人間としての連綿とした生き方そのものであろう。三代に渡って、清濁併せ持つキャラクターに磨きがかかっていく様は見事である。そこに、あえて言うならば現代が全く見落とし見捨てた世界観があるのではないか。事件やミステリーは脇役でしかない。従って、事件の真相が肩透かしをくらうようなものであったとしても、それゆえにこそ、といったところなのだろう。

2010年2月7日日曜日

副島隆彦:ドル亡き後の世界

今まで、氏の「予言」が的中しているか否かについては自ら検証してはいない。本書に書かれていることも10年先の未来のことではなく、まさに今年の事であるから、とりあえずメモしておこう。本書の要約はこうである。

  • アメリカの景気は2010年3月頃から崩れ始め、いったん持ち直すものの、2010年末にアメリカは恐慌に突入し2012年が大底となる。
  • 株、為替、債権は世界的に暴落し「金融崩れ」が顕著になる。一ドルは80円を切り、場合によっては60~70円代に、ダウ平均は6000~7000ドルまで低落、日経平均も5000円を割る。
  • オバマ政権は経済的な失敗から任期途中で辞任する。日本はいまだにせっせと米国債を購入しているが、中国は米国債を徐々に売る準備をしている。
  • 債権価格は上昇。RMBS、CMBS、CDOなどの金融派生商品のリスクが一気に顕著になる。
  • アメリカは借金を返せなくなり、デノミ、計画的なインフレを引き起こさざるを得ない。
  • このような中で、中国のプレゼンスは必然的に高まる。
  • アメリカ中心の世界は崩壊し基軸通貨としてのドルは地位を失う。
  • 個人資金を保護するならば、金融商品ではなく「金」や成長可能な日本株を底値で買え。

副島本に共通する話題であるから、新規性は乏しいか。この話を信じるか否かについては賛否があろう。サブプライム問題を思い出しても、日本は当初は軽く見ていたらダメージは深かった。グリーンスパンが「100年に一度の危機」と称したが、思ったよりも早く経済は(日本を除いて)回復基調だ。マスコミは何を伝え、何を伝えない(知らない)のか、素人が経済新聞を読んでいるくらいでは、実際のところはよく分からない。

混迷は深まるばかりで、このような不安を政治的に払拭しようとする動きは全くに見えない。将来的に不安しかない状況が今の日本の現状であり限界なのであろうか。

2010年2月6日土曜日

オルテガ:大衆の反逆

内田樹のブログを呼んで、オルテガの名前を目にして以来、ようやく読了。20世紀初頭のヨーロッパ(スペイン)と21世紀初頭の日本において、オルテガの提示したテーマは現代性を持ちえているだろうか。

オルテガを批判(した)する者は、エリートと大衆の区分についてであろうが、オルテガの貴族性とは内的なものであり、身分制度として述べているのでないことは自明である。過去からの時代精神や制度、思想などの恩恵の上に成立するはずの現代人が、過去の英知や努力などをご破算(無視)にした上で、果実のみを享受しているということ、あるいは権利のみ主張し義務を省みない者たちやその心象こそを、オルテガは批判したわけである。

発達した科学やシステムの中で、選択の自由度は増したにもかかわらず、それら生与の権利に対し無自覚であることが大衆の罪であるとしたことは、現代に生きる者にとっても的外れな話ではない。文明や生きていく上での前提条件ともいえようか。

彼の主張は、支配するものとしての「国家」にも言及されるが、彼のテーマは政治やイデオロギーにはない。ファシズムやポルシェヴィズムを批判的に述べているとしてもだ。彼の着眼は「生の衝動」という言葉などで繰り返されるように、生きること、文明社会の本質的そのものに対する問いかけのように思える。

そういう観点からは現代のネット社会に生きる我々が、彼の忌み嫌った「大衆」であることは論を待たないし、オルテガの指摘は今でも鋭さを失ってはいない。しかし、とことんまで分散し個別化した大衆が、改めて解体され再生されることがあるとしたら、そらがどういうことなのかは、今の私には見えない。

2010年2月5日金曜日

副島隆彦:売国者たちの末路

副島の論理を胡散臭いと感じるか、真実を伝える伝導者と考えるかでとらえ方は全くことなるであろう。読後の印象として、副島氏得意の根拠なき陰謀論満載で、こんな本を読んでいると大きな声で言うのは、やはり控えたほうが良かろうということ。裏のロスチャイルドやロックフェラーなどの金融系支配者が支配しているという世界観は面白いとは思うが、フィクションとしの時間つぶしならばよいが、副島の妄想に付き合っている時間はそれほどない。ただ、それを「妄想」と論破する論拠もこちらにはないだけのことだ。

しかし彼が誰を支持し、誰を糾弾しているのか、そしてアマゾンの圧倒的な無垢な副島礼賛と覚えておいて良いだろう。

彼の視点は、日本国民を騙してアメリカに資金を流入させる者を売国奴と称しているわけであるから、小泉-竹中路線につながる人脈を批判するのは理解できる。小泉改革がすべて間違いであったのか、ということについては、いまだ私の中で評価は定まらない。規制緩和を進め競争を進めたことは、功罪相半ばといった印象がある。資本主義が悪いわけではない以上、正当な競争原理のもとで健全な発展をすることは間違ってはいないし、用がなくなった業界や企業が退場することも、いたし方がないことである。問題は、その退場のさせ方であり、あまりに急激な変化は社会不安を生むし、失業率の増加などマイナスの要因が大きすぎるということだ。「痛み」は理解するが、誰もその痛みを自分が負う覚悟はできていない。そういう点から、池田信夫氏が指摘するように、労働市場の流動性がないこと、あるいは大企業の既得権益が強すぎることが問題であるとする主張の方が理解しやすかろう。

こういう小泉路線に対して、守旧的な小沢、亀井路線が存在し、ある程度の支持を獲得している。副島氏も彼らを支持し日本を守るという姿勢を鮮明にしている。しかし、彼らの主張は時代に逆行し、真の意味で改革することを遅らせてはいないかという点に対する疑念は晴れない。特に彼が小沢民主党を支持することには違和感さえ覚える。鳩山は論外にしても。

「改革か成長か」「需要か供給か」「金融か財政か」といった、タマゴニワトリ的な論争は専門家にまかせるとするが、日本が大いなる混迷の中にあって、この本も混迷を深めこそすれ、光明を見出す本にはなり得ていないことに変わりはない。

2010年1月30日土曜日

松浦理英子:犬身

「犬身」=「献身」なのでしょうか。犬になりたい願望を持った女性が、メフィストフェレスのような悪魔と取引をして、自分(犬)を大事にしてくれる人の「犬」になるという話。

犬が好きな飼主に飼われる犬の気持ち、犬の心地よさ、犬の幸せ、犬の快楽が理解できなければ、この本には入り込めないだろう。私は犬を飼っているが、主人公の気持ちには全く共感を寄せることができない。そういう意味では、私は真に犬をかわいがってはいないということか。人間と犬にしか通じ合わない関係というものがあることを首肯したとしても、犬になって一生を終えること、犬の知性にまで(言葉は悪いが)堕ちてしまうことに、なぜ根源的な恐怖がないのか。人間としての実生活や人間関係を抹殺できるほどの絶望と諦念??

飼い主の家族の風景にも、嫌悪感しか覚えず。こんなグロで幼稚な精神しか持っていない家族を描き出して、どうしたいのですか。逃げ場のない不幸な者に、見返りを求めずによりそうこと、そこから得られる無償の幸福ですか?それは「犬」にならなくては実現できない「愛」ですか。だとしたら、かなり哀しい・・・。私は、人間のまま、人とつきあいたいです。(あ、それぢゃあ小説にならないか)