2011年8月7日日曜日

展覧会:礒江毅=グスタボ・イソエ 特別展 練馬区立美術館

西武新宿線 中村橋駅すぐ近くにある練馬区立美術館で開催中の、礒江毅 特別展を観てきました。スペインで写実絵画の技法を学んだ礒江氏の真髄を余すことなく伝える展覧会でした。

礒江氏の絵は、ホキ美術館で接した数点しか知らなかったのですが(今回の作品展を観て、ホキにあった数点が礒江氏の作品であったことに気付かされたということです)、今回は圧倒されどうしでした。写実の重みとでもいうのでしょうか、凄い絵画だなと。「写真のような」という言葉は、観ていてついぞ口をつくことはありません。写真では決して表現しえない、絵画というものが有する力に、ぐうの音も出ないほどに屈服させられたとでも言いましょうか。



磯江氏の画面を支配しているのは、静謐さと儚さ。音もなく積み重なる時間の堆積のようなもの、そしてそこに無限への畏怖と慈しみと愛情が流れているように感じました。人物画が多いのかと思いきや、むしろ静物作品が多い。しかし、これらの「もの」が語る世界の重さや深さは、礒江氏が到達した境地を感じます。

もちろん、卓越した技巧があっての画面構成であり、作品の精度なのですが、作品を作りこむ過程における画家の観察眼とか哲学的感性、そのような無形のものさえもが、画面に定着されてしまっている。それゆえ、静物がが静物がであることを、人物画がそれであることを超越し、神秘と称するには安易にすぎ、しかし敢えて言葉にするならば、存在とか生きることの深淵を垣間見せてくれているのではないかと。宗教的題材を描いていないのに、死生観とか無常とかの感覚を覚えるのは不思議なことです。

そのような絵でありながらも画面が切ないほどに美しすぎる。これは絵として完璧なのではないかと。ホキ美術館で多くの作家の写実絵画を前し、驚きはしても感動はしませんでした。今回、改めて磯江氏の絵画に接し、深いところで静かに打ち震え涙している自分が居ました。

彼は1990年中頃までスペインで活躍し、その後日本にもアトリエを持ちます。1980年後半から90年前半といえば、日本はバブルの時代。あのような狂騒的な世界にあって、海外において日本人がこのよううな絵画を描き続けていたことに、言いようのない驚きを感じます。磯江氏が日本にアトリエを構えてから、彼は日本の中に何を見たのでしょうか。それは作品に変化として表れたのでしょうか。

残念なことに、美術展を観るというのに眼鏡を忘れてしまい、細部まで良く見ることができませんでした。会期中にまた行くかもしれません。

(修正2  2011/08/08)

2011年8月6日土曜日

諏訪敦絵画作品集「どうせなにもみえない」

諏訪さんの最初の作品集は発売数も少量だったらしく、どこも在庫切れ。ネット上では2万5千円程度で取引されているとの情報もあるため、今回の諏訪さんの作品集「どうせなにもみえない」も、手に入らなくなる前にと、発売日とほぼ同時にゲットしました。



諏訪敦さんは、日曜美術館で知った画家。作風は(おせじにも)決して明るくはなく、(ある意味において)美しくもありません。彼の絵は、仮に所有したとしても、堂々とリビングや玄関に「飾る」類の絵ではないように思えます。ごく個人的な内的感情を確認するための絵とでも評したらいいのか、女性の裸像にしても表情にしても、どこか痛々しさが伴います。そして少々確信犯的に偽悪的です。

特に父の死を扱った作品などは、どのように接していいのか、今でも戸惑いを覚えます。諏訪さんが父の死に接して「描くことでしか愛情を表現できなかった」とNHK番組で答えていたのは印象的でした。本作品集には収められていませんが、「ステレオタイプ」というタイトルの作品を描き続けた意味も、逆説的な告発であったように思えますし。彼の絵は幾重にか捩れているように感じます。

そもそも、本作品集や諏訪美術館での同名の展覧会「どうせなにもみえない」という題名が素直ではありません。「誰に」「何が」みえないのか。描かれているモデルが、何かを見ようとしているのに見えないのか、あるいは、画家の描いた絵の内実を、絵を見る人が見えていないのか。「どうせ」という投げやりで幼稚な表現、大の大人が「どうせ~」と表現するときの抵抗と摩擦。タイトルさえ画家の計算なのでしょうか、緻密さを感じます。

作品集には、成山画廊での作品や日曜美術館で特集された「絵里子」も納められています。 こうして、諏訪さんのある時代の作品を見ると、「絵里子」が彼としては少し特異な作品でありつつも、見事に諏訪ワールドを展開していることが分かります。

諏訪さんほどの技量のある画家ですから、描こうとすれば何でも描ける。それなのに、描かれた対象やモデルの、現実感や所在なさとか、美とは少しずれた、どこかに片足をつっこんだ感覚というか。それが何なのか気になるため、私はもうしばらく彼の作品を見なくてはならないのだなと思うのです。彼の絵はきわめて現代的な写実絵画であるのだなと。

こういい加減なことを書き連ねながらも、画布の裏から(画集だから紙背ですけど)透徹する画家の目線を感じずにはいられません。ある意味、試されているかのようです。

(修正2  2011/08/08)

2011年7月7日木曜日

松井冬子さんのインタビュー記事(朝日新聞)

朝日新聞に日本画家の松井冬子さんのインタビュー記事が出ていました。
松井冬子さんは、美人女流画家としても有名で、先日ブログにエントリーした成山画廊のオーナーが見出し、諏訪敦さんのモデルにもなっていることで、その名前が私に深くインプットされました。

彼女の絵は、新聞にもあるように「幽霊や内臓があわらになった女性の死体、動物の亡がら」など「人々が目をそむけたり、社会的に排除されてきたものを主題」としています。

はっきり言って「グロい」と思うような作品が多いです。しかし、なぜか目を背けることができないのは、そこに美とか醜い、汚いとかいうよりも、根源的な力のようなものがあるからなのかもしれません。いやいや、そんな難しいことではないのかも。何を見たくて何を見たくないのか、見たくないのはどうしてなのか。

「日常生活に美はない」、美は「自らの想像力で発見するもの」、「作品を創造するのに大切なのは、構築していくこと」という松井氏の言葉は、芸術家としての自覚と厳しさに満ちた発言です。「発見」しても「構築」できなくては表現にならない、だから「技術」と「パッション」が必要と。

何を美とし、何を醜とするのかは、ひとそれぞれ。好きなもの、忌避するもの。松井さんは「まずは自分が何が好きなのかをどんどん突き詰めていくこと」が大切だとときます。自分が本当は何が好きなのか。

ここに素直になることは、制約の多い現代の社会では、なかなかに難しいことでなのだと思います。そこに徹底的に向き合えるからこそ芸術家を志向し、技術を駆使して再構築できるから芸術家なのだろうと。当たり前のことなんですけど、改めて思いました。

好きを極めるこということは、自分の「核」を見つけることにもなるわけで。芸術家には狂気が宿るのは、当然の帰結なんですね。

2011年7月5日火曜日

諏訪敦 絵画作品展 「一蓮托生」 成山画廊に行ってきました

画家、諏訪敦氏に興味をもったので、九段にある成山画廊で開催中の作品展を観てきました。

作品は、「成山画廊」に関するもので、画廊主である成山明光氏と、彼が見出した美人女性画家 松井冬子氏のドローイングと肖像画などが数点。NHK日曜美術館でも最初に紹介された、松井冬子の二面性を表していると解説されたドローイングも展示されていました。

狭い空間に並べられた作品は、美術館などで接するのとは違ったおもむきです。

諏訪氏の作品は「写実画家」としての面目躍如といいますか、画面の精緻さは改めて記述するまでもなく。彼独特のテーマや世界観が作品に遺憾なく展開されており、それはそれで興味は尽きないものでした。

こういう絵が欲しい、お金を払って所有したい、いくつも集めたい、という欲求を持つファンは、少なくないだろうと予想します。でも、彼の絵は一般的で安心安全な癒しとはちょっと違う次元にありますから、私のような常識人からすると、何かどこかが毀れていないと、彼の作品と一緒に暮らすことはできないのではないかと思えてしまいます。(日曜美術館で紹介された絵こそ、諏訪氏の作品からすると、異色であったのかも、です。)

彼の冷たい質感をもった裸婦がリビングを飾っている風景というのは、シュールを通り越しています。むしろ北側の書斎のひと隅に、独占的な視線の中に飾られることこそふさわしいような。あるいは普段は、厚い布で覆われていて、これはというときに開陳される類の絵とか。

彼の絵を観て、ふと「標本」ということを思い浮かべました。「標本」のもつ魅惑と隠微さ。いやいや、妄想がすぎますか。

調べてみると、モデルとなっている松井冬子さんの作品は、諏訪さんよりもさらに強烈です。なかなか正視に堪えない作品が多いのですが、それでも観てしまう、観ることを抗うことができないというのは、どういうことなのだろうと、考えてしまいます。こういう肉体性を持った作品が現代的なのでしょうか。彼女は1974年生まれ、この世代は活躍していますね。

それにしても、この成山画廊という存在そのものが、謎というか、カウンターカルチャーというか。成山画廊のコレクションも、何か完全に一線を超越してます。人の陰部、隠しておきたい暗い欲望、自分の知らなかった一面、不健康な健全、崩れそうないびつなバランスの中での美意識・・・

いろいろ言葉にすると陳腐になってしまいます。百聞は一見にしかずです。美術というのも、付き合ってみると危険すぎます。

2011年7月4日月曜日

HNK日曜美術館 諏訪敦の写実絵画

日曜美術館で諏訪敦氏の写実絵画についての番組が放映されました。
    記憶に辿りつく絵画 ~亡き人を描く画家~
事故で亡くした娘の肖像画を描いて欲しいという画主の依頼に、画家がどう取り組んだかというドキュメント。

絵画とか写実の意味を問い直すという点で、非常に興味深い番組で、かつ日曜美術館にしては感動的な出来でしたので、忘れないうちに記しておきましょう。


私は美術フリークではありませんから、実は諏訪氏の名前も作品も、今年オープンしたホキ美術館に行って初めて接しました。というか、日本の写実絵画シーンについて、この美術館で初めて知ったといってもいい。そんなトーシローですから、まずホキ美術館での感想から書くこととします。

この美術館は、日本初の写実絵画美術館と銘打たれて建てられました。展示室には超絶的な技巧を駆使した絵画が、これでもかとばかりに並べられています。観客はみな「写真みたい・・・」と絵の前でため息をついています。ずいぶん昔のアメリカで流行ったスーパーリアリズムの画風とも大きく一線を画します。作品は本当に写真と見まがうばかり。

だからこそ「写真ではなく絵にすることの意味」が問い直されます。「そこまでそっくりに描くなら写真でいいぢゃん」ではなく、「何故絵でなくては駄目なのか」という必然が伝わってこなくてはなりません。それが風景であろうと、人物であろうと、静物であろうとです。画家は技量と熟練に溺れるがゆえに表層的に上滑りしする危険性を忌避しなくてはなりません。音楽で言うならば超絶技巧を有した奏者の演奏を聴いて、驚きはするものの、必ずしも感動するわけではなないことと同義です。

展示されている写実作品は、(作家を問わず)無垢で無防備な女性モデルが多いことに気がつきました。陶器のような肌、透けて見える皮膚の下の血管、上質な絹のような衣服、繊細な後れ毛の一本一本など。ひとつの理想化された女性像であるのだなと感じました。

ああ、美しいく心地よいものを見させてもらっているなあと。回廊を巡りながら感じていました。

ところが、最初は心地よく感じていたそれらの絵が、何枚も重ねて見るに付け、次第に生臭くなり、なんとも息苦しく思え、最後には胸が悪くなり、ついには正視することに耐えられなくなりました。これは、どうしたことなのか。

「なんでも描けてしまう」ということは、恐ろしいことです。対象への慰撫とか愛情を超え、画家の持つ自我やエロス、もっと言うと隠れた欲望までをダイレクトに表出してしまうのでしょうか。いや、そもそもが芸術作品とは、すべからくそういったものなのでしょう。

抽象的表現とは違い、写実表現という分かりやすさから、画家の身勝手さや子供じみたジェンダー感までをも、ダイレクトに感じ取りやすいのかもしれません。一緒に見ていた妻は「老人の妄想に付き合っている暇はない」とまでに辛辣でした。私は男性ですから、そこまでの酷評はしないのですけど、共感できる感覚を覚えたものです。もっとも、これは私(たち)の感じ方で、実際の作者の意図とかほかの人の感じ方は、ぜんぜんに違うものだとは思いますよ。

そんな、行きつ戻りつの印象の中にあって、諏訪氏の作品は少し異色でした。展示されていたのが、巨大な画家の父の死化粧であったせいもあるのでしょう。老いの醜さや、その裏にある人間というものの存在、生きてきた意味とか尊厳、画家の冴えた愛情あるいは愛憎か。そんなものが、厳かな死臭とともに漂ってくるような作品でした。

実のところ、最初はどうしてこんな作品を描くのだろうと、嫌悪感さえ感じたものです。しかし、結果的には、彼のこの作品がもっとも心の奥底に沈殿することになりました。腐臭を放っているようでいながら、そうではなく、一番に清冽な作品であると、後になって感じました。

そんな印象が諏訪氏の作品でした。

もっとも、日曜美術館で「写実絵画」というタイトルを見ても、画家の名前を聞いても、彼とは最初は結びつきません。しかし、番組で紹介された彼の数枚の作品を見て、ああ、あれかと。どうしても諏訪氏は、こういう作品を描いてしまうのだなと、番組を見進めながら思いました。

諏訪氏は描きながら「写真」と「絵画」の間を行きつ戻りつします。あるいは「絵画」を「現実」とか「記憶」と言い換えてもよいのでしょうか。番組のコメンテータが「想い出」と「記憶」の違いを強調していました。私はそういう言葉の本来的な意味ではなく、あるフィルターを通した「現実の再構築」ということ、それが作品造りそのものであると考えました。

それは、写実絵画の技法が写真に対抗するとか、越えるとかいうようなものではなく。「そういうもの」を「写真」で表現してしまう芸術家あるいはアーティストもおそらくは居ることでしょう。手段が絵なのか写真なのかが問題なのではなく、表出された結果=作品に、個々人が何を感じるか。

彼の絵から感じる、写実を超えたところにあるものとか、その真髄は、この番組を見ただけでは到底分かりません。

それでも彼の絵には、どことなく死の影が漂いうのを感じます。死と表裏にある生と性の仄暗さみたいなものとか。彼の衝動は片足をどこかに突っ込んでいる。それが、画家の本質的なものに結びついているように思え、それゆえに私は諏訪氏という画家に興味を感じました。

それにしても、この絵の依頼主である両親は、この絵に果たして癒されたでしょうか。描かれなかった腕時計の文字盤を受け止めることができる日が来るのでしょうか。毎日、絵の中の娘に語りかけ、どういう歴史が絵とともに刻まれていくのか。そして絵に何かが宿るのか・・・。それは、もはや画家の手を離れた絵としての運命なのでしょう。

九段の成山画廊で作品展も開催されているようです。機会があれば行ってみたいものです。→行きました