2003年11月23日日曜日

NHK音楽祭 ゲルギエフのマーラー交響曲第3番

日時:2003年11月22日 14:00~
場所:NHKホール
指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
合唱:キーロフ歌劇場合唱団

マーラー:交響曲第3番 ニ短調)

コンサートにのぞむにあたって、あるいはマーラーの交響曲第3番という異常に長い演奏に接するにあたって、私は余りに精神的にも肉体的にも疲れていたかもしれない。結果から言ってしまうと、ゲルギエフという贔屓の指揮者の演奏であったにも関わらず、演奏から得るものは必ずしも多くはなかった。演奏を聴きながら「このまま終わってしまうのか」と半ば諦めと虚しさを感じていた。

マーラーの交響曲第3番は合唱を伴う大曲であり、テーマも死を連想させる要素は薄く、冬を押しのけた夏の勝利、夢のような矛盾、甘美さと目も眩む様な壮大な境地にまで高まった神の愛さえ感じる曲だ。合唱が登場するのは第4、5楽章、時間にして十数分である。しかしピンポイントで入るソロや少年合唱は、この曲を際立たせており、そうしたことで得られる最終楽章の美しさは、何ものにも変えがたいものがある。ティンパニーの強打とともに締めくくられるラストでは、大きな感動に包まれるはずであったのだが・・・。では、今回の演奏に何が不足していたのかと思い出そうとするのだが、それを適確に表現することは難しい。

第一楽章冒頭のホルンのテーマの吹奏は、音量的にもはっとするほどのものであったし、音響的重心の低さと分厚さは、オケの実力を十分に感じさせるものであった。NHKホールで、あれほどの音を聴けるとは思っていなかっただけに驚きとともに期待は高まった。

ゲルギエフの演奏なだけあって表現の巾は広いし、分厚い音響に支えられた音楽は聴き応えは十分、甘美で優雅な旋律も悪くはなかったと思う。しかし、結局のところ複雑で矛盾に満ちたマーラーという雰囲気はあまり感じることができず、全体的な表現としてストレートすぎるようにも感じられた。

演奏を聴きながら、ゲルギエフのマーラー観というものは、いったいどうというものなのだろうかと自問していた。バーンスタインやテンシュテットの演奏だけがマーラーではないことも認める。バーンスタインの印象を私は引きずりすぎていると思うときもある。いや、ちょっと待てだ。そもそも、私のマーラー観とは何なのか。この演奏が良いとか気に食わないというほどに、私はマーラーを聴き込んでいるわけでも、マーラーに通じているわけでもないではないか。

それでも、私の拙い音楽経験の中で築かれたマーラー像と今回のマーラー演奏の間に微妙なズレがあり、それを私は認容することができなかったということなのだろうか。音量が大きければ感興が得られるというものでもないわけだ。

個人的には注目の演奏会であったが残念な結果であった。クラシックBBSで有名な「クラシック招き猫」の「音の余韻館」も覗いてみたが、わずか1名の方の書き込みがなかった。今回のゲルギエフ来日の目玉がキーロフオペラにあったとしても淋しい限りではある。

2003年11月15日土曜日

PMF2004にゲルギエフ登場  

「モーストリー・クラシック」のサイトを見ていたら、来年のPMFにゲルギエフが登場するらしい。以下は、同HPから引用。

個人的にゲルギエフは嫌いではないが、PMFにゲルギエフが適切なのか、資金面から疑問を感じるのは私だけか。人気の指揮者を招待して、クラシックファンの裾野を広げようという意図なのかもしれないが、PMFというのは、本来的には一発もののイベントではなく、もっと地道な活動のように思えたのだが。

いずれにしても、札幌にいない間にゲルギエフが札幌に1ヶ月近く滞在するというのは、穏やかな気持ちになれないことだけは確かだ。

●札幌で毎夏開かれている教育音楽祭「PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)2004」の記者会見が14日、東京都内のホテルで行われた。会見には、PMFの前田龍一常務理事、PMF首席教授・芸術主幹を務めるウィーン・フィルの首席クラリネット奏者ペーター・シュミードル、そして、来年の首席指揮者を務めることになった指揮者のワレリー・ゲルギエフらが顔を揃えた。
●PMFは1990年、指揮者で作曲家の故レナード・バーンスタインの提唱でスタート。教育音楽祭としては、米国のタングルウッド、ドイツのシュレスヴィヒ・ホルシュタイン音楽祭と肩を並べる存在に成長した。来年は7月10日から8月4日まで行われ、オーケストラコース、コンポジションコースの教育が行われ、オーケストラ演奏会、教授陣による演奏会、ミニ・コンサートなど40公演の開催が予定されている。
●オーケストラコースでは、ワレリー・ゲルギエフの指揮、ニコライ・ズナイダーのヴァイオリンによるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、ショスタコーヴィッチの交響曲第11番「1905年」をはじめ、ファビオ・ルイージによるマーラーの交響曲第6番「悲劇的」、チエン・ウェンピン指揮によるバルトーク「中国の不思議な役人」、リヒャルト・シュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」などのプログラムが組まれている。
●会見でシュミードルは、「PMFは来年で15年目を迎えますが、常に新しいことを取り入れていくことが大事だと思っています。これからも世界的にビッグな指揮者を招く努力をしていきたい」と語った。一方、ゲルギエフは「PMFの発足前から、バーンスタインからこの素晴らしい計画のことを聞いていました。若い人に教えるだけでなく、彼らから学ぶことも多く、若い学生と新しい体験ができるのを楽しみにしています」と語った。

2003年11月13日木曜日

ヒラリー・ハーン/バッハ バイオリン協奏曲

ヒラリー・ハーンのグラモフォン移籍の1枚目はバッハのヴァイオリン協奏曲だ。今では当たり前のようになってしまった古楽器系の演奏ではなく、現代楽器による颯爽とした演奏である。では、ここに納められた演奏は、今の評価からすると「異端」なのか。ここにバッハ音楽の奥深さと複雑さと歪曲と、そして誤解があるように思える。

バッハは演奏家からすると「試金石」のようなものであるらしく、高名な演奏家であってもバッハと対峙するのは相当の解釈論と経験をつんでからでないとできないという人も多い。ハーンはデビューからしてバッハのソナタを演奏し世界をあっと言わせたのだが、私はここでもあっと思ってしまった。

��曲目のヴァイオリン協奏曲 ホ長調の出だしのスピード感ときたらどだろう。一瞬にしてハーンの巧みな音楽世界にさらわれてしまう。そして Adagio での憂いと翳りの表現。見事なまでの対比が、それこそ一分の隙もない音色で奏でられる。だからといって、感傷的であったり感情表現に傾きすぎているというわけでもない。聴いてみれば、切れの良い表現で淡々とバッハの音楽的世界が語られているように思える。

2003年11月11日火曜日

ワルキューレ 第1幕

「CDで聴く初めてのワーグナー」というシリーズが春から全く停滞しているのだが、久しぶりに「ワルキューレ」の前半を聴いてみた。

ワルキューレの第1幕は、ジークムントがジークリンデの家へ迷い込むところから始まります。またしてもお互い一目惚れしてしまいます(兄弟なのに)。上で旦那のフンディンクを眠り薬で眠らせて、二人で陶酔的な愛を交わすという、とんでもない幕である。

しかし、音楽を聴いていると一時にワーグナーの異常な世界にどっぷりはまり、第3場の「剣のライトモチーフ」とともに、ヴォータン(ジークムント兄弟の父)の与えた剣を手にするシーンは、まさにに圧巻という印象を受けます。凄まじきはワーグナー、映像を見ずともこれほど鮮やかに劇が再現されると驚くばかり。

第2幕第1場は、ヴォータンが娘のブリュンヒルデ(ヴォータンが女神エルザに生ませたワルキューレの一人)とつるんで、息子のジークムント(ヴォータンが人間に生ませた双子の兄)を助けようと企みます。それが、ヴォータンの正妻であるフリッカにはたまらない。しかもジークムントとジークリンデは近親相姦してしまっているのだから、結婚の女神のフリッカは許すことができない。それで、夫であるヴォータンにキレまくっているシーンなのだが、ここはとても笑える。ワーグナーって、一体どういう倫理観だったのだろう・・・

日本フィル 第137回サンデーコンサート

日時:2003年11月10日 14:00~
場所:東京芸術劇場
指揮:小林 研一郎
演奏:日本フィルハーモニー交響楽団
ヴァイオリン:二村 英仁

リスト:ハンガリー狂詩曲 第2番
サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン(ジプシーの歌)
ラヴェル:演奏会用狂詩曲「ツィガーヌ(ジプシー)」
モンティ:チャールダーシ
ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」

コバケン+日フィルの演奏会に出かけた。リストのハンガリー狂詩曲に始まり、二村氏のヴァイオリンが3曲、そして「展覧会の絵」と親しみやすいプログラムであった。

しかし、日曜日14時のに始まる「サンデーコンサート」という気楽な雰囲気の演奏会のためか、会場が始終ざわついていてどこか緊張感に欠けていた。それは演奏中でもそうで、開放咳ならまだしも鞄やパンフレットのガサゴソする音が始終絶えない。そういう私も体調があまりよろしくなく、なかなか演奏に没頭できないで終わってしまったというのが正直な感想。

二村氏のヴァイオリンは優しく温かみのあり、それでいてなかなかに聴かせる演奏だったと思うのだけど、心には響いてこなかった。二村氏と日フィルとの相性という点ではどうだったのだろうか。「ツィゴイネルワイゼン」のような通俗名曲を技巧でブイブイ弾きまくる演奏が、二村氏のスタイルには似合わないのかもしれないとも思った。

ラヴェルやモンティは、私には始めての曲で、全くもったいないのであるが、とにかく楽しめないままに二村氏は去ってしまった。二村氏は、機会があればもっと近い席でじっくりと聴かせて貰いたい音であったことは付記しておこう。

次は「展覧会の絵」である。コバケンの展覧会なのだからとかなり期待して聴き始めた。しかし、本番であるから事故やミスは止むを得ないと思うのだが、金管群が不安だ。弱音でのアンサンブルの乱れも気になり、どことなく雑な印象を受ける。そして時々、自分の耳がおかしいのでは訝ったのだが、音程がどうもピンとこない。それも弱音での出だしの音だったり、重要な部分での音程であるだけに演奏全体の印象がぼやけてしまった。(プロのオケなので、音程が悪いということはありえないと思う。私は当日は風邪気味であったから、頭と耳がぼやけていたのだと思う。)

展覧会の絵は、強弱や緩急取り混ぜながら、最後のキエフの大門に向かって盛り上がる曲だが、最後のクライマックスも弱音での緊張が維持されてこそ壮大な感興が得られるものだ。肝心の弱音での繊細さや緻密さ、美しさに乗り切れなかったため、今日の演奏には満足できなかった。

アンコールは、何か1曲やった後に(忘れた)キエフの大門のラスト数分をもう一度演奏した。こういうアンコールもありかなとは思ったのだが、コバケンの生真面目さとサービス精神、そして音楽と日フィルへの深い愛情は感じたが、今日の演奏の印象をくつがえすものではなかった。

4月に東京に来て日フィルの演奏を聴くのはじめてであったのが、今まで数度聴いた東響と比較すると、弦の音色や雰囲気が異なっているように思えた。東響はどちらかといえば透明感が際立っているが、日フィルには音に粘性を感じ重心も低く、良い意味での雑味も感じることができる。それだけに全体のバランスが崩れてしまうといただけないというのが、今日の感想ではあった。体調の良いときに再度、コバケン+日フィルを聴いてみたい。

蛇足になるが、コバケンは3階席にいてさえ、その唸り(叫び?)声が聴こえるほどである。それでも、帰り際にクラシックファンたちが「コバケンも年をとったなあ」と感慨深げに話す声が、なぜか耳に残ったのであった。

2003年11月10日月曜日

冬に期待するもの

ストレス解消のひとつに、私の場合はレビュとかを書くというのがある。誰に向かって書くわけでもないのだが、自分の中で鬱々と溜まる感情を放置しておくと、霧散するか蓄積してしまうので吐き出すという作業をしている。仕事の関係でHPの更新を現在できない環境なので、鬱々とした感情は発散しがちになりる。

そんな中で最近私が期待しているのは、なんと言っても11月23日のゲルギエフのマラ3だ。これはNHKホールなので若干不安もあるし、最近のゲルギの音楽性を考えると凶と出るか吉と出るか。マラ3も長い曲だが、終楽章の美しさをゲルギはどう表現するのだろう。

��Dで期待するのは、12月に発売されるアムランのショスタコか。アムランのヴィルトオーゾ性というのは、感情を交えないピアニズムの極致のように思え、例えばホロヴィッツのヴィルトオーゾとは対極的な位置にあるのではないかと思ったりする。そういう意味から、彼はどんな難曲を弾いても深刻や意味深にならず、ひたすら曲の構造美が浮き出てくるように思える。

��MVではクライバーの「田園」が山積だった。私としては、クライバーの「トリスタンとイゾルデ」の方が魅力的だった、6000円を超えているのでしばし保留。同じくトリスタンではカラヤン盤も出ており、本当は両方とも欲しいところ。そろそろDVDドライブでも買って、レヴァインの指輪でも観ようかとは思っているのだが・・・